完璧なメドベージェワが洟を擤む
秋尾 敏
(『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 秋尾敏』)
そんなに前のことではないから、メドベージェワが主に2010年代後半にトップスケーターとして活躍したフィギュアスケート女子シングルのアスリートである、というくらいのことは覚えている。しかし、ロシアの女子フィギュアスケートは、どんどん若手が台頭して10代なのに新旧交代の旧側に立たされてしまい、代表から外れたということもスポーツニュースで見た気がする。しかし、ここのところのロシアはドーピング問題で変なことになっている上に、権力者が前時代的な大戦争に打って出たので、その後のメドベージェワがどうなっているのかなんて話はさっぱりわからなくなってしまった。
掲句の「完璧なメドベージェワ」という措辞は、文字通り受け取ると存在が完璧な、メドベージェワという名前の人物ということになり、テキストのみからならば先のスケート選手ではない読みは排除されない。一例として、元ロシア大統領メドベージェフの婦人はメドベージェワだから、外交の場でびしっと礼装をキメた婦人がいきなり洟を擤む、といういささか滑稽な内容としても成立はする。が、引用元の自句自解で、あの選手の試合前の練習中のことだと書いてあるので、作家の意図はその文脈を構築する。その部分の自句自解を引用してもいいのだが、試合本番後の景色とみた自分の読みとはすこし違うので差し控える(気になる方は読んでください)。
フィギュアスケートの選手が洟を擤む姿は試合をみているとよく見かける気がする。寒いところでやるのだから当たり前だが、演技のあとにコーチのところへ戻った選手が洟を擤むところまでテレビのカメラが追いかけるのは、どうなんだろうかと見るたびに気になっている。擤まない選手もいるだろうしいちいちそんなの構っていられないのかもしれないが、そんなところを撮されたい選手はいないのではないか。でも作者は、そこを「一瞬の人間らしい仕草が、目に焼きついた」と書く。そう書かれてしまうと、自分などは人間らしさってなんでしょうねえ、となってしまうのだけれど、ともあれ、そうして生まれたのがこの句であるらしい。いまやメドベージェワ(に限らないが)が競技場で自己に完璧を求める姿にどこまでも更新を求めて止まないある種の人間らしさを見いだせる、という以前はあたりまえのように存在したはずの環境を取り戻すのがずいぶん困難なことになってしまったせいか、どうもそう言う部分に引っかかってしまった。広義の時事句(機会詩)の働きのなせる技、ということになるだろうか。蛇足ながら、掲句の自解でも句中の「音通」の働きについての分析を書いてあるのだが、引用書では自句を用いた字音の働きの分析をところどころに織り込んでいて興味深い。あまりそういう自句自解はなかったのではないだろうか。
(橋本直)
【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。
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【橋本直のバックナンバー】
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>>〔73〕杜甫にして余寒の詩句ありなつかしき 森澄雄
>>〔72〕野の落暉八方へ裂け 戰爭か 楠本憲吉
>>〔71〕寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子
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>>〔52〕南海多感に物象定か獺祭忌 中村草田男
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>>〔49〕彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
>>〔48〕蜩やチパナスのあたり雲走る 井岡咀芳
>>〔47〕日まはりは鬼の顔して並びゐる 星野麦人
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>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり 大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり 大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理 星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり 中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く 小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰 井本農一
>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ 堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん 村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり 会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌 秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱 広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す 石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず 飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春 三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑 橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは 大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき 小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな 正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没 永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな 加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴 星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る 篠原梵
>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな 夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿 前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる 阿部青鞋
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下 寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子 百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣 高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな 飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり 夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く 西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす 山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ 村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり 林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな 横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ 中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し 塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな 高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ 竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ 長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風 正岡子規
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】