ハイクノミカタ

妻が言へり杏咲き満ち恋したしと 草間時彦【季語=杏の花(春)】


妻が言へり杏咲き満ち恋したしと

草間時彦
(『中年』)

 妻に「恋がしたい」と呟かれたら夫はどのような反応をすべきなのだろうか。結婚生活が長くなると、夫婦間の恋心は薄らぎ、同志とか共同経営者とかそんな存在になるのだろう。子供がいれば「ママ」「パパ」と呼び合う。強い絆で結ばれた信頼関係と肉親のような愛情はあるが、恋とは違った形に移行してしまうと聞いたことがある。

 とある男性は、妻を「ママ」と呼んでいるうちに母親のような存在になってしまい、恋の対象ではなくなったという。母親に甘えるような無邪気さで恋の相談をしたら、慰謝料の請求書と共に離婚届を叩きつけられたとか。小説やドラマでもよくある展開である。

 一方女性は、夫が父親のような存在になっても恋の相談はできないのではないだろうか。一緒に大河ドラマを見て「戦国武将の側室になってみたい」とか「女城主と家臣の恋って素敵」とか、そんな話はできる。夫の関心を引きたい気持ちがないわけではないが、嫉妬して欲しくて言っているのではない。夫としては「ドラマに感情移入し過ぎ」ぐらいの冷静な返事しかできない。

 1991年公開のイタリア映画『金曜日の別荘で』は、当時の話題作。ステファノとアリーナは世間的には理想の夫婦だが、夫は妻の激しい情熱を受け止めきれない。妻のアリーナは、夫が親しくしている女友達との関係を責め、さらには自分の欲望を満たしてくれる愛人パオロと週末を過ごしたいと言い始める。週末に赤いドレスを着て出かけてゆくアリーナは妖艶で夫の知らない顔をしていた。嫉妬心が芽生えた夫は、愛人パオロの家に乗り込み、妻もそれを喜ぶのだが、その上をゆく刺激を求めてしまう。最終的には夫も妻も夫婦の愛情を選択する。夫が妻の激情を持て余し、苦悩の末に週末の妻の浮気を許可する場面が印象に残る。結婚後も夫との恋を持続させたい妻と、恋から愛に変わってしまい妻の要求に応じられなくなった夫との愛情のすれ違いを官能的に描いた映画である。

 日本には昭和中期頃まで「浮気は男の甲斐性」という考え方があり、浮気の一つもできない小心者の男は、出世しないと言われていた。だから妻は夫の浮気を許し、時には妾宅を訪れ「夫がいつもお世話になっております」と高価な菓子を渡す。夫の浮気を承認できない妻は、嫁として失格であった。だが、妻の浮気は姦通罪(昭和22年に削除)として処刑される。日本の女性は、結婚したら、恋をすることが禁じられていた。恋の対象が夫であったとしても、重荷にならないよう身を引くのである。

 「新しい女」という言葉や、それを描いた文学が流行ってより百数十年が過ぎた今の世でも古風な女性が好まれている。なのに妻が浮気をするドラマや漫画は、多くの批判を巻き込みつつも高い支持を得ている。恋をしてはいけない、あるいは恋とは無縁の生活をしている人妻の恋は、『源氏物語』よりも『万葉集』よりも遥かな昔から人々の共感を得ていた。

  妻が言へり杏咲き満ち恋したしと   草間時彦

 杏の花は、四月の初めの頃に梅よりも桃よりも華やかに咲くイメージがある。密々としてふくよかに空間を染める薄紅色の杏の花は、桜ともまた違う魅力がある。近年は庭木として品種改良が進み公園などにも植えられているが、ひと昔前は、杏畑でしか見ることができなかった。花言葉は「乙女のはにかみ」「疑惑」である。

 職場に寡黙な男性がいた。ある年の新入社員歓迎会の宴で隣の席になった。私が酒を注ぐと「央子さんは、俳句を詠まれると聞いていますが、杏の花は季語ですか」と聞かれた。寡黙な男性が喋ったと皆驚いた。「四月の季語で私も好きな花です」と答えた。「僕の実家の長野県には杏畑があって、高校生の頃は杏の花の下で詩を書いていました」と言う。当然ながら「じゃあ、一緒に俳句を詠みましょう」と勧誘した。「僕には無理です」と言われてしまうと会話が続かない。男性はその後、突然辞職して長野県に帰ってしまった。1年後「高校時代の同級生と結婚することになったので式に出席して欲しい」との連絡を貰った。様々な事情により出席できなかったことが悔やまれる。年賀状等の交流を経て、数年後に長い手紙がきた。「娘が幼稚園に入学しました。妻との思い出のある杏畑に行ったら、妻が呟きました。ときめきが欲しいと。遠距離の期間もありましたが、高校生の頃から寄り添ってくれた妻の発言が理解できません。央子さんは、恋の句も詠まれているとのこと。女心が分からない私にご助言下さい」と。当時の私はまだ恋多き独身。そんな相談に何と返事をして良いのか悩んだ。「詳しいことは存じ上げませんが、杏畑は奥様との恋を育んだ場所なのでしょう。杏の花を見て奥様は、高校時代のときめきを思い出されたのではないでしょうか。恋がやすらぎに変わったときに、女性はそんな発言をしてしまうのかもしれません」と書き綴った。正しい解答だったのかどうかは分からない。しばらくして「妻が高校時代から好きだった喫茶店が閉店することになり、閉店の日に家族でナポリタンを食べました。唇をケチャップで染める娘を見て妻と笑い合いました」とのハガキを貰った。翌年、ご子息が生まれたらしい。妻の何気ない一言が夫を動揺させることを知った。

 当該句の妻の発言はどこまで真実であったのかは分からない。杏の花を見ていると甘い気持ちになるものだ。杏の花の精霊の囁きが口を付いて出てきたようにも思える。案外、最近読んだ小説の話をしていて「あんな恋してみたいわ」という発言の一部を詠んだのかもしれない。恋に恋する乙女のような妻の発言は、微笑ましくもある。だが夫には迂闊なことは言うべきではない。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔88〕四月馬鹿ならず子に恋告げらるる 山田弘子
>>〔87〕深追いの恋はすまじき沈丁花  芳村うつぎ
>>〔86〕恋人奪いの旅だ 菜の花 菜の花 海 坪内稔典
>>〔85〕いぬふぐり昔の恋を問はれけり  谷口摩耶
>>〔84〕バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ 上田日差子
>>〔83〕逢曳や冬鶯に啼かれもし      安住敦
>>〔82〕かいつぶり離ればなれはいい関係  山﨑十生
>>〔81〕消すまじき育つるまじき火は埋む  京極杞陽
>>〔80〕兎の目よりもムンクの嫉妬の目   森田智子
>>〔79〕馴染むとは好きになること味噌雑煮 西村和子
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>>〔77〕寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ   小路智壽子
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>>〔72〕男色や鏡の中は鱶の海       男波弘志
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>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
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>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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