ハイクノミカタ

もう逢わぬ距りは花野にも似て 澁谷道【季語=花野(秋)】

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もう逢わぬ(へだた)りは花野にも似て

澁谷道
(『縷紅集』)


 9月の頃にとある高原を訪れたことがある。ロープウェイで八合目まで登ると湿原が広がり、高山植物が群生していた。地上では見かけることのない、白や黄色や赤の花々が高原を染め、あぁこれが花野かと思った。

 朝早いロープウェイにて登山客の一団と乗り合わせた。登山好きな俳句仲間が話しかける。登山客は、八合目で降りた後、花野を抜けて頂上を目指し、その後は尾根沿いに山々を巡り、最後はどこかの温泉町に辿り着くというルートを語った。ロープウェイを降りると、彼らは足早に登山口の方向へ歩いてゆく。我々俳人は、散策路や集合場所、帰りのロープウェイの時間の確認などをして出発した。登山客は、すでに起伏のある花野のずっと先を歩いていた。俳人達の歩みは遅く、珍しい花を見つけるたびに足を止め、イモリを見つけては大騒ぎしていた。途中、木道の分かれ道があり、俳人は高山植物群生地へと迷わず進む。もう一つの道は登山口へと続いていた。登山客が進んで行ったであろう木道は花野で霞み、彼らの姿はもう見えなかった。じっくりと高山植物を堪能しながら木道に沿って花野を抜けると、登山口の売店の前へ出た。そこで登山客と再会する。登山客は、入山手続きに時間が掛かっていたとかでベンチで茶を飲んでいた。さらには、修験者の一団が入山するため、時間調整が入るとのこと。そんな話をしている間に白い衣を纏った修験者が法螺貝を吹きながら目の前を通り過ぎて行った。我々も帰りのロープウェイの時間が迫っていたため、別れを告げた。引き返しの道で名残惜しく振り返ると、ただ花野が広がっているだけであった。

 俗世に戻るため下山する我々と、聖なる山の奥へと進む登山客。花野は俗と聖の間に横たわるトンネルのような気がした。もう一度逢えそうで逢えない多生の縁だったのだろう。

  もう逢わぬ(へだた)りは花野にも似て   澁谷道

 男女の仲もまた、人生という道のどこかで乗り合わせ、ひと時は親しく語り合うが進む道が異なれば別れを告げる。不思議と、もう二度と逢うこともないだろうと思う人ほど再会率が高い。逢えば寄りを戻すこともあるだろう。一方で、また逢う約束を交わした人とは逢えないものである。

 とある女性は、価値観の違う男性と交際していたことがある。目指すものも違うし時間軸も違うのだが、重なり合う部分があった。営業職の男性と事務職の女性が食堂で出くわして海老ピラフ定食を一緒に食べる時間のように。出世して金を稼ぎたい営業の男性と、自分の夢を叶えるため定時で帰れる事務を選んだ女性。大勢の部下を統率し金を稼ぐ男性に女性は憧れ、夢を持って独自の世界観を持つ女性に男性は憧れた。花形営業マンの男性は、いつしか一円の金にもならない夢に時間を費やす女性の生き方が分からなくなった。すれ違いの日々が続き、最後には「君とは持っている世界が違う」と言ってしまう。それは、女性も同じ気持ちだった。いつまでも食堂で時間を潰している暇はない。女性は、「分かり合えない人と一緒にいても時間の無駄だから」と告げた。

 数年後、とある交差点ですれ違った。目が合ってお互いに手を上げかけたのだが、言葉を交わすことなくゆき過ぎた。二人の間には、出逢ったことさえも幻に変えてしまう花野が広がっていたのだ。雑踏という花野にて、振り返って名前を呼び合ったら寄りが戻ることもあったのかもしれない。その時は、ただお互いの進むべき道を急いでいた。信号を渡りきった時、対岸から強い視線を感じて振り返ったが、人混みで霞むスクランブル交差点がざわざわと揺らいでいただけであった。

 花野という空間は狭いようで広い。それは、二人を隔てる境界だからだ。花野は、別の道を歩むことが決められていた男女が出逢い、共有し、ひと時を過ごす場所なのである。もう逢わないと決めた瞬間に花野は広がり、出逢ったことも恋をした記憶もすべて塗り替えてしまうのだ。振り返った女性の眼の中に、男性の姿は映らなかった。

篠崎央子


『澁谷道俳句集成』は沖積舎から2011年11月1日(澁谷さんの誕生日)に刊行されました ↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔63〕目のなかに芒原あり森賀まり    田中裕明
>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え    鷹羽狩行
>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数    辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
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>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
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