ハイクノミカタ

告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子【季語=泳ぐ(夏)】


告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む

恩田侑布子
『夢洗ひ』


 想いを告げずに終わった恋は世にあまたあるだろう。手に掬った泉の水が溢れて地に零れてゆく。水は清らかなまま、地に還り、再び泉の水となるのだ。告げることのなかった愛に未練はない。ほんの少しだけ、悔いを残しつつも。

 惹かれ合っている男女の恋が成就するかどうかは、タイミングが重要である。タイミングを外してしまったら、二度と恋は実らない。それはきっと、実らなくて良かった恋。もしもあの時、こうしていたら…という悔いは、美しいままの想い出を保存する。

 高校生の頃である。帰国子女の彼は、お洒落だが変わった発言が多かった。すらりと背が高く彫りの深い顔立ちは、ハーフという噂もあったがハーフではない。英語が堪能で、父親譲りの理系の才能を継ぎ、理系クラスではトップの成績であった。当時の私は、日本文化を追求していたこともあり、横文字交じりで話しかけてくる彼の言動に反感を抱いた。同級生のちょっと派手目の美人に「グッドモーニング」と声を掛ける軽さ。外国文化を知っているというだけでどれほど奢っているのかとも思っていた。

 高校時代、演劇部に所属していた私は、三島由紀夫の戯曲集を読み、そのアレンジに命を懸けていた。シナリオライターを持たない演劇部の部員達は、自分達の出来る範囲で話し合いシナリオを構成してゆく。

 私が、図書館で調べ物をしていたときに、彼は声を掛けてきた。「映画を観に行こう」と。演劇の勉強のために観ておきたかった映画だったので承諾し、待ち合わせ場所まで決めた。不思議なことではあったが、映画デートの約束をしてしまうと、何を着て行こうかとか、食事はどこで食べようかとか、想像が膨らみ眠れない日が続いた。ところがデートの数日前、お目当ての映画の上映が終了していることに気付いてしまった。「その映画終了しているみたい」と言うと彼は「じゃあ、止めよう」と答えた。図書館にて映画を観に行く約束をした後の数日間は、放課後、自転車で二人乗りをして駅まで送ってくれたりしたのに。別の映画ではダメだったの? その後、彼からは避けられるようになった。

 後になって人づてに聞いた話である。彼の父親が海外転勤になる前、日本人離れした容姿のせいで彼はいじめを受けていた。他にも様々な事情が重なり、単身赴任予定だった父親に家族で着いて行き、海外生活を送ることとなった。高校生になって帰国すると女の子にモテモテ。そのような中で、日本文化を愛し、自分の口説きに応じない私が新鮮に映ったらしい。しかし、幼い頃にいじめられたコンプレックスが消せず、映画の誘いを体よく断られたと思ったとか。私は、ただ彼の観たかった映画が観られないという真実を告げただけの、嘘が言えない真面目な少女に過ぎなかった。

 あの時、一緒に映画館に行き「観たかった映画は、終わっているけれども、違う映画観る?それとも公園を歩こうか。」なんてデートもできたのかもしれない。今でも悔やまれるところである。

 私自身にも言い訳がある。「映画が観たいのではない。君と二人の時間を過ごしたいのだ。」と言って欲しかった。ただ、それだけのこと。結局、彼に惹かれていたことも告げなかった。彼もまた、私に惹かれていたことを告げてはくれなかった。

  告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む   恩田侑布子

 愛を告げることは、とてつもない勇気を要する。どんなにお目出度い性格でも振られたらどうしようという恐怖が付きまとう。恋の成就するタイミングとは、神様の贈り物なのだ。告白とかそんなものはいらない。目と目が合った瞬間に抱き合えば恋は成就するのである。

 映画を観る約束をした彼は、その後、熱烈にアプローチしてくれた年上の女性と交際する。だが、自分に尽くしてくれる彼女の情熱を疎ましく思ったのか、数ヶ月で別れてしまう。結局、プレイボーイとの噂が立ってしまい、女性から敬遠されたとか。彼に避けられるようになって1年ぐらい後のこと、急にデートを申し込まれたことがある。私には、恋人がいたのでやんわり断ったが。

 海外生活の長かった彼の馴れ馴れしさや、日本文化を否定するような発言。交際しても上手くいかなかったであろう。些細なすれ違いにより恋は成就しなかった。溢れ出る妄想や想いはあるけれども、それで良かったのだ。「鉄は熱いうちに打て」ではないが、二人の想いが最も高まっているときに突き進まなければ、恋は実らないのである。純粋さを持て余した泉の水が指の隙間より零れてゆく。告げることのできなかった愛を悔やむように水は土を濡らした。「覆水盆に返らず」…。些細なすれ違いもまた、神様の贈り物。悔いを残してこそ、恋の雫は光を放つのだ。

篠崎央子


恩田侑布子句集『夢洗ひ』(角川俳句叢書・2016年)はこちら ↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 春山もこめて温泉の国造り 高濱虚子【季語=春山(春)】
  2. あとからの蝶美しや花葵 岩木躑躅【季語=花葵(夏)】
  3. 大氷柱折りドンペリを冷やしをり 木暮陶句郎【季語=氷柱(冬)】
  4. 鯛の眼の高慢主婦を黙らせる 殿村菟絲子
  5. 月光にいのち死にゆくひとと寝る 橋本多佳子【季語=月光(秋)】
  6. 海外のニュースの河馬が泣いていた 木田智美【無季】
  7. 底冷えを閉じ込めてある飴細工 仲田陽子【季語=底冷(冬)】
  8. 少女才長け鶯の鳴き真似する  三橋鷹女【季語=鶯(春)】 

おすすめ記事

  1. 【#28】愛媛県の岩松と小野商店
  2. マフラーを巻いてやる少し絞めてやる 柴田佐知子【季語=マフラー(冬)】
  3. 敷物のやうな犬ゐる海の家 岡田由季【季語=海の家(夏)】
  4. 廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥【季語=春日(春)】
  5. 【秋の季語】馬鈴薯/馬鈴薯 ばれいしよ
  6. 大河内伝次郎西瓜をまつぷたつ 八木忠栄【季語=西瓜(秋)】
  7. 【春の季語】ヒヤシンス
  8. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2022年10月分】
  9. ゆる俳句ラジオ「鴨と尺蠖」【第2回】
  10. マグダラのマリア恋しや芥子の花 有馬朗人【季語=芥子の花(夏)】

Pickup記事

  1. 【冬の季語】探梅行
  2. 新涼やむなしく光る貝釦 片山由美子【季語=新涼(秋)】
  3. 【新番組】ゆる俳句ラジオ「鴨と尺蠖」【予告】
  4. 【書評】相子智恵 第1句集『呼応』(左右社、2021年)
  5. 【春の季語】啄木忌
  6. 神保町に銀漢亭があったころ【第6回】天野小石
  7. 【夏の季語】田植
  8. 【夏の季語】風鈴
  9. クローバーや後髪割る風となり 不破 博【季語=クローバー(春)】
  10. 非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子【季語=緑(夏)?】
PAGE TOP