ハイクノミカタ

目のなかに芒原あり森賀まり 田中裕明【季語=芒(秋)】


目のなかに芒原あり森賀まり

田中裕明
(『夜の客人』)


 作者の田中裕明は早世の天才である。17歳の頃より短詩を始め、18歳の時、同じく若き天才である島田牙城に誘われ波多野爽波主宰の「青」に入会。大学時代は理系を専攻。1982年、22歳にして『角川俳句賞』受賞。当時は最年少受賞者である。27歳の時、同門の森賀まりと結婚。33歳にして、「水無瀬野」を創刊。後の主宰誌「ゆう」の母体である。「ゆう」創刊の翌年、41歳にして白血病の発症により入院。2004年、45歳にして永眠。没後は、妻である森賀まりらによって、田中裕明研究と作品を語る雑誌「静かな場所」が創刊された。田中裕明の永遠の恋人である森賀まりは、薬剤師として働きながら三人の娘を育て、夫の死後、2010年には、俳人協会新人賞を受賞する。また、2009年、若手俳人を対象とする田中裕明賞(主催:ふらんす堂)が創設されている。今でも夫婦ともに若手に人気の俳句作家である。

 当該句が収められている第5句集『夜の客人』は、発病以後の句からなり、急逝により遺句集となった。妻の森賀まりが出版に全力を尽くした。死期を予感していた作者が、残してゆく妻子を想い詠んだ壮絶な一句。病床で目を閉じれば芒原がざわざわと吹かれている。芒原は、異界へと続く輝く海なのである。そこにぽつんと立つ妻は、恋をした日の姿のままであり、自身に生きる勇気を与える救世主のような存在であったのだろう。

 芒原は、古代より生と死が交差する場所である。『万葉集』の芒原は、男女の逢瀬の場所であった。〈我妹子(わぎもこ)に逢坂山(あふさかやま)のはだすすき、穂(ほ)には咲(さ)き出ず恋(こ)ひわたるかも 作者未詳〉。「恋人に逢える逢坂山のすすきよ。穂が出るようにこの恋を人に知られてはいけない。けれども恋し続けよう」という内容の歌である。公認の仲になる前の秘めた恋なのだが、芒原にて人目を忍び逢瀬をすることを前提としている。

 その一方で、芒原は、小野小町の髑髏伝承のように、旅の途上で行き倒れた死者の床でもある。平安時代の美男子在原業平は、傷心の旅路の芒原で〈秋風のふきちるごとにあなめあなめ〉という短歌の上の句を聞き取る。「秋風が吹くたびに目が痛い」という内容なのだが、その声の主を訪ねてみると芒が目より生えた髑髏であった。しかも髑髏の正体は憧れの女流歌人である小野小町だった。恋多き歌人小野小町は、晩年、旅をして歩いたという伝説がある。故郷である出羽の国に戻ったという言い伝えとともに旅路の果てに亡くなったという伝説もある。この髑髏伝承は、平安時代初期に書かれた最古の説話集『日本霊異記』の一節がベースとなっている。

  目のなかに芒原あり森賀まり   田中裕明

 死期を予感した作者にとって妻はどのように映ったのであろうか。骨髄性白血病と診断され全身の痛みと倦怠感にさいなまれていたであろう。それでも俳句を詠み続ける。何故ならば俳句を詠む妻がいたからだ。毎日のように病床を訪れ、働きながら子育てをする妻。自身の俳句才能を削ってまで献身的に尽くしてくれる妻に対し、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが行き交ったであろう。

 彼にとって妻は天使のような存在だったのかもしれない。妻であり恋人である以上に、自分を包み込んでくれる芒原のような母胎の豊かさを感じていた。出逢った頃は、同世代の若手俳人として結社のライバルであり憧れの存在でもあった。結婚後は、裕明の俳句表現をより高みへと誘い、結社運営に於いては、必要なパートナーでもあった。家事や子育てをしながら仕事をし、俳句を詠む妻は、自分には出来ないことを成す、女神だったのだ。それは、青き衣を纏い、黄金の野原を歩くナウシカのような救世主なのだ。

 森賀まりの紡ぐ詩情豊かな俳句は、裕明にはないおおらかさがあった。夫にとって妻は芒原のように輝かしくも自分を包み込む存在だった。若くして妻子を残し死んでしまうが最後まで妻を愛した。俳句という旅の途上にある夫は、死後、髑髏となった自分の目を突き抜けてゆく芒のような妻の才能を信じていた。妻という黄金の芒に抱かれて早世した田中裕明。自分以上に天才である妻の名をこの世に残したのだ。裕明の俳句の夢は、芒原を駆け巡り妻に託された。森賀まりは、今もなお詩情高き俳句を詠み続けている。〈月入るや人を探しに行くやうに 森賀まり〉

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え    鷹羽狩行
>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数    辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
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