蜆汁神保町の灯が好きで
山崎祐子
東京都千代田区神田神保町は本の街だ。決して広くはない一画に大中小の出版社や書店が櫛比する。古書店街としては世界最大規模らしい。別の一画にはやはり大小のスポーツ用品店も密集している。近年はタワーマンションが建ったり、ややお澄まし顔も見せているようだが、全体にごちゃっとした印象は変わらない。下町とはちょっと趣の異なる人臭さのある町だと思う。
「神保町の灯が好き」とはそんな町が好きということだ。この町に暮らしたり働いたりしているのではなく、時々やって来る人だろう。夜を欺くばかりに煌々と輝くネオンに気分の上がる街もいいけれど、気の置けない町の灯りにほっとする。やっぱりこの町が好きだなあ、と地味だが滋養たっぷりの蜆汁を啜る作者の姿が見えて来る。「好きで」と繕いのない直截な表現から、神保町を知らぬ人にも町の佇まいが十分伝わるに違いない。
さて、この町には二年前まで小さな酒場があった。店の名は銀漢亭。当サイトにはその名に馴染みのある読者の方が多いだろうから詳しい説明は避けるが、俳人伊藤伊那男さんが2003年に開いた店だ。当初、俳人酒場にする意図など毛頭なかったそうだが、年を追うごとに夜な夜なさまざまな俳人が顔を出すようになり、ふらっと立ち寄って常連になった客が俳句を始めるようになり、とやがて店は俳人のメッカとも呼ばれるまでに育った(大袈裟な)。作者も実はそんな一人で、私も顔を合わせたことが何度もある。開店間もなく「ちょっとだけ」と入って来たのに、次から次へ訪れる客と話が弾み結局長居になっているところも見かけた。そんな時の作者の心底からの笑顔は記憶に鮮明だ。だから、この句の「神保町」をつい「銀漢亭」と読み換えてしまう。銀漢亭の灯が好きだったのは私だけれど、同じ思いを作者も幾許かは抱えていると思いたい。銀漢亭の定番メニューに蜆汁はなかったにしても。
銀漢亭がコロナのために休業したのは2020年の3月末。店が続いていたならば、今頃は「Oh!花見句会」と称する一大句会に大勢が駆けつけていた筈だ。嘆いたとて店が復活するものではない。それでも、「当面休業します」の貼り紙のまま閉店してしまったのは恨めしい。
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
【太田うさぎのバックナンバー】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】