神保町に銀漢亭があったころ

神保町に銀漢亭があったころ【第71回】遠藤由樹子

角を曲がれば

遠藤由樹子

かなり以前ということは確かだが、それがいつであったか思い出せない。春であったか、夏であったか、秋であったか、冬であったかも思い出せないのだが、初めて訪れた銀漢亭の店内の印象は、なぜか昨日のことのように懐かしい。

銀漢亭で行われている「火の会」という超結社句会に初参加したのである。 

在籍していた「未来図」の先輩である山田真砂年さんに声を掛けてもらってのことだ。地下鉄神保町駅で降り、教えてもらった通りに行けばほどなく銀漢亭の灯が見えた。夜になれば車も通らず、静まりかえっている路地の片側に店内の灯が明るく零れていた。川のほとりのようだなと思った。

指定された時刻より早めに着くと、カウンタ―の中から伊那男さんが「いらっしゃい。よく来たね」と声を掛けてくれた。それから握手をしたかどうかは覚えていないが、握手をしたような気がしてならない。会えば自然と手を差し出して握手をしたくなる温かさが伊那男さんにはある。一貫して変わらない私の中の伊藤伊那男像だ。

句会はテンポがよく、堅苦しくないが真剣。厨房の中から、参加者のお一人である伊那男さんの寸評が飛んでくるのも嬉しい。耳を澄ましながら、料理の腕を振るっていらしたのだろう。 

句会が終了すれば、伊那男さんの男の料理のよろしさに舌鼓を打ち、時間の経つのも忘れて懇談した。およそ気の利いたことの言えない私だが、打ち解けた気分になれた夜だった。

その夜からしばらく毎月「火の会」に参加したが、「未来図」の句会と重なり、いつの間にか自然退会した。

最後に銀漢亭を訪れたのは、2019年の6月4日。パリへ旅立つ伊那男さんの愛弟子堀切克洋さんの送別会であった。堀切さんは「この師にしてこの弟子あり」と思える気持ちのよいお人柄で、俳句を始めた娘の容代共々、渡仏前に何度か句会をご一緒させて頂いている。その夜の伊那男さんは堀切さんを激励しつつも、可愛くて仕方ない弟子の旅立ちに少しさみしそうであった。

私にとり最後となるその夜の銀漢亭に、娘と一緒に行けたことが嬉しい。


【執筆者プロフィール】
遠藤由樹子(えんどう・ゆきこ)
「未来図」に入会、鍵和田秞子に師事。「未来図」を退会後、現在無所属。第61回角川俳句賞受賞。句集に『濾過』(角川書店、2010年)


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第67回】 伊賀上野と橋本鶏…
  2. 「野崎海芋のたべる歳時記」ルバーブ
  3. 【連載】新しい短歌をさがして【17】服部崇
  4. 神保町に銀漢亭があったころ【第28回】今井肖子
  5. 【連載】新しい短歌をさがして【19】服部崇
  6. 神保町に銀漢亭があったころ【第127回】鳥居真里子
  7. 神保町に銀漢亭があったころ【第35回】松川洋酔
  8. 「パリ子育て俳句さんぽ」【9月24日配信分】

おすすめ記事

  1. 【連載】もしあの俳人が歌人だったら Session#6
  2. 大金をもちて茅の輪をくぐりけり 波多野爽波【季語=茅の輪(夏)】
  3. 花の影寝まじ未来が恐しき 小林一茶【季語=花の影(春)】
  4. 【冬の季語】愛日
  5. 【春の季語】山桜
  6. 【夏の季語】サングラス
  7. 麦真青電柱脚を失へる 土岐錬太郎【季語=青麦(夏)】
  8. 片足はみづうみに立ち秋の人 藤本夕衣【季語=秋(秋)】
  9. 新婚のすべて未知数メロン切る 品川鈴子【季語=メロン(夏)】
  10. 鶴の来るために大空あけて待つ 後藤比奈夫【季語=鶴来る(秋)】

Pickup記事

  1. 髪で捲く鏡や冬の谷底に 飯島晴子【季語=冬(冬)】
  2. 海鼠噛むことも別れも面倒な 遠山陽子【季語=海鼠(冬)】
  3. 【連載】もしあの俳人が歌人だったら Session#9
  4. 取り除く土の山なす朧かな 駒木根淳子【季語=朧(春)】
  5. カードキー旅寝の春の灯をともす トオイダイスケ【季語=春の灯(春)】 
  6. 春星や言葉の棘はぬけがたし 野見山朱鳥【季語=春星(春)】
  7. はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき【季語=蜩(秋)】
  8. 男欲し昼の蛍の掌に匂ふ 小坂順子【季語=蛍(夏)】
  9. 百代の過客しんがりに猫の子も 加藤楸邨【季語=猫の子(春)】
  10. 【秋の季語】芋虫
PAGE TOP