百合のある方と狐のゐる方と 小山玄紀


百合のある方と狐のゐる方と

小山玄紀

最終回なので、書きたいことを全部書こうと思う。最近行っているのは、「撲滅運動」。身辺の句会から、面白くない句を面白くないときちんと言うようにして、草の根的に撲滅しようとしている。撲滅の対象は、正確に言うと、面白くないのに参加者の多くが面白いと感じて合評の俎上に上がった俳句、ということになる。

ここでいう面白くない句、というのは、(広義)予定調和・作為の範疇・他者と代替可能・大衆的、といった言葉で説明を試みることができる。平たく言えば、「句会で点が集まってしまう俳句」であり、または「一般的に句会で褒められる句」である。つまり既存の評価基準の範疇に収まっている俳句といえようか。もう少し乱暴に言うなら、「(かなり実力に定評のある俳人も含めた)普通の人が『良い句』と思っているであろう句」ということになる。

そして、「面白い句」を作ることは難しいが、そうした「面白くない句」を回避することは相対的には簡単である。余談だが、世の中の俳句を一人の人間が鑑賞した時に得る感想は「面白い/面白くない」の二者択一ではなく、「面白い/ダメではないし誰かから見れば面白いかもしれない/面白くない」の三択であるから、この「面白くない」を回避するだけでも相当偉いのである。この三択でいう「面白くない」には先ほどの「普通の人が『いい句』と思っているであろう句」以外に「それ以前の句・論外の句」が入っていることに注意されたい。僕が撲滅したいのは前者である。

この「面白くない」を消去法的に回避する方法として今自分の頭の中にあるものをこの際出し惜しみせずに吐き出してしまおうと思う。理由は、一つにはてんで出鱈目かもしれないから惜しむ必要もないということ、もう一つはこの文章を少しでも面白いと思ってくれる人がいれば面白くない俳句の撲滅に繫がるかもと思うことである。これまで「群青」「南風」や各総合誌に断片的に書いてきた内容でもある。

タイトルは「20周俳句入門」とでもしようか。筆者自身の力はインプット・アウトプットともにリアルに2周目の頭くらいかなと思っているが、語呂を優先して20周としてみる。とにかく普通の「良い句」を新規性のないものとして極力回避することを主眼として、「一周まわった、手練感のとれた純粋な」良さを追求する。

「用語を回避することによる意識改革」
俳句を鑑賞するとき、無意識に使ってしまっている評の言葉を回避し、意識を変えていくことを目指す。

1.俳句を褒める用語で「上手い/巧い」を用いるのをやめる。
「上手い」は技術の話、俳句が面白いかどうかは心の話である。技術が前に来てしまっている時点で良くないし、もっと言うと「上手さ」とは過去から積み上げられてきた基準・規範に照らした価値判断であるのでそういう意味でも手練感を醸してしまう。俳人たるもの技術力はあって当然で、それをどう目立たせず効果的に使うかということでもある。

2.用語「季語が動く」をやめる
俳句の景色はそこに書かれた事物から立ち上げるものであって、ものをすり替えるなんていうのは鑑賞者の態度としては三流である。そういえば、これはもう5年も前になろうか、小山玄紀さんが似たようなことを言っていた。曰く、「その季語の俳句なのだからそこから何が読めるか考えようよ、その季語の俳句として読もうよ」というような内容だったと思う。

3.用語「季語の斡旋」をやめる
この語を聞くと、斡旋? 何様のつもりですか? と思う。この作り方ではあなたの作為の範疇は超えませんよ、とお伝えしたい。

4.用語「即かず離れず」をやめる
即きすぎるとだめ、離れすぎてもだめ、それはわかる。しかし「即かず離れず」が俳句の高評価のポイントになるのはおかしい。そう選評した人には「季語と事物とが即かず離れずだと俳句がよくなるんですか??」と訊きたくなる。季語と事物との距離感の調整が目的の競技ならそれでいいが、一句が面白ければなんでも良いのが俳句である。

距離感は一つの一般化されたセオリーにとどまる。「即かず離れず」は減点を回避したのみにすぎず、その俳句の純粋な良さの説明にはなっていない。その俳句の純粋な良さとは、目の前に提示された季語や言葉から何が立ち上がるかによってのみ生まれるものであるから、取り合わせの距離感の力学の話に終始してはならない。

5.用語「季語を飛ばす」をやめる
3の「斡旋」と同じ。所詮作者の作為程度のものしかできない。とにかく、取り合わせの俳句においては、季語とそれ以外との「距離感」の力学で読んでいるうちは幸せになれない。

「セオリーを一旦白紙にすることによる意識改革」
ここまでの用語の話の延長で、セオリーとされていることを白紙に戻す。これは前にもこの連載で書いたことがある。

6.「中八」をネガティブ用語として用いない。
中八だからダメ、というのは判断が早計である。中八であることの良し悪しは都度一句の中で判断されるべきことである。

7.「主の季語」という用語に注意する。
季重なりの句を読むときに「でもこちらが主の季語ですから気になりません」ということがある。それ自体は間違ったことを言っていないが、どうも主従があれば季重なりはOKでそうでなければ避ける、といった理解が多いようだ。これは、一句の季語を近似的に一つとみなして季重なりを回避しようという志に基づいていて、季重なりを悪しとするセオリーに則ってしまっている。主従のない/薄い季重なりにおいて、季語と季語とが「モノ・コト・空気」として拮抗する良さを無視してしまっている。

8.「無季」を無季だからという理由で忌避しない
無季は難しいが、目の前の無季俳句が詩として面白ければその句はきっと優れているはずである。ちなみに、巷でよく言われている「無季俳句には季語に代わる重いテーマが必要である」については必ずしも同意しない。テーマは必要であるが、何も戦争や死のように重い必要はないように思う。小山玄紀さんはその辺りを打破しようとしているように見える。

自分が無季をやらないのはなぜだろうと思うことがある。一つはノウハウのなさであるが、加えて心の動きがある。例えば目の前の団扇を写生すれば有季俳句で、腕時計なら無季、と言われると心の動かされ方として確かに納得するところだ。それだけ団扇は腕時計に比べてやはり何か背負っているのであろう。それが今の所の答えである。心の動きが変われば答えもまた変わる気がする。

「『取り合わせ』を再考してみる」
ここまでお読みいただいて薄々勘付かれたかもしれないが、よく用いられる「取り合わせ」には非常に警戒感がある。距離感の力学で作られた俳句が多すぎるように思う。この辺りをもう少し立項する。

9.「同居」の概念を用いる
「季語」と「それ以外」を別々のところから持ってきたり、鑑賞の上で別々に味わったりするのではなく、「同居」するものとして解釈してみる。575を一枚の絵や一つの空間、一つの世界などと、一体として鑑賞するやり方である。

10.季語圏とモノ圏・コト圏・心圏との出会いを俳句にする
季語とそれ以外の距離感で俳句を作るのではなく、モノ圏・コト圏・心圏との出会いとして解釈する。「圏」とは纏う雰囲気のようなものである。同居のイメージを一体形成する。

11.「実際にそこにあった」を大切にする
10を実践するために、自分は「実際にそこにあった」を大切にしている。季語圏とモノ圏との偶然の同居に心を動かされたとき、俳句になる。

12.季語を分析的に解釈しない
9の話と近いが、季語を分析的に解釈するのは避けるべきである。例えば、「チューリップ」に対して「明るい」「子どものイメージ」「町にある」などのシグナルで使われている俳句をよく見る。そうした分析的な用い方・読み方ではなく、チューリップの季語圏を一体として見る読み方、分析の要素ではなく一つの花としてみた時のチューリップの固有の良さを追ってあげるべきである。

13.その季語は必要か?
取り合わせの俳句で、「その季語必要?」と思うことがある。季語以外が人事や造形物など全くの人工物である時が多いが、「あたたかや蕎麦屋の前の長き列」みたいな感じであとから季語がくっついたかのような形には要注意である。季語がひっついているから俳句のように見えるが、よく見ると詩になっていない。これは何も、中七以下が「山門の鋲くろぐろと」などのようにちょっと上手になっても同じことである。無季発想の有季句は、「俳句にするために」季語が用いられている場合があるのが要注意である。

「芯の良い俳句を作るために」
ガワで持っている俳句を作らない。点を集める俳句ではなく真に芯から良い俳句を作るために心がけていることを列挙する。

14.お化粧しない・言い換えない
内容に詩がある俳句を目指し、表現の飾りでなんとか合わせ技一本を狙う俳句は作らない。例えば「列車から人が一人降りた」ことを「列車が人を一人放った」と、意味を変えずに味つけしたとすると、一句の内容として持たないために「言い換え」をして、合わせ技一本を狙った表現ということになる。他に「砂を搔く」と言えばいいのを「砂の明るさを搔く」というとお化粧のための言い換えとなる。

15.比喩・見たてはやめてみる
比喩や見たてはよく見るが、句の芯から遠く手前でやられていることが多い。見立てることのどこに詩があるのだろう? と自問した方が良い。先述の「砂の明るさを搔く」も見たての範疇である。「砂を搔く」に詩がないのだとしたら、それを明るさに見立てて言い換えたところで口当たりはよくなっても残念ながら詩にはならない。その点、岸本尚毅の「如し」はすごいといつも思う。

16.向日性を排してみる
「綺麗な」「好もしい」「優しい」を評価から外してみる。するとガワではない句の芯が見えることがある。俳句でよく「光」を見るが、その光はガワの光ではないかと疑ってみる。

17.用言を控えてみる
14-16に付随するが、飾りの言葉をやめてみる。それらの用言を取り払った時の芯に詩がなければ、多分その用言はガワの用言である。

18.評価を入れない
例えば、「高し」「多し」といった評価の言葉より「あり」が偉いと思う。一例を挙げると「日直の子の声高し〇〇〇」というのを見ると、「高くてどうしたの? 高いのが良いの?」と思ってしまう。「日直の子の声のする〇〇〇」であれば、あくまで声と〇〇〇との偶然の出会いの俳句だと読める。評価がノイズになることがあるということである。

他に、「あたたかし」の方が「のどけし」「うららけし」よりも偉いと思っている。あたたかしは体感の言葉であるのに対して、のどけしやうららけしは心も込みの言葉である。心も込みの季語をうまく生かした俳句を作るのは相応の心の動きが必要であるように思う。

19.脚色・調整しない
俳句を長いことやっていると、こっちの方がうまくいきそうだぞ、という経験則が身についてくる。その調整こそ、きっと新しい俳句への道を閉ざしてしまうだろう。調整なしの剝き出しの詩情を提示することを心がけたい。

20.「文字通り」を大切にする
14.15とも関連するが、目の前のものは文字通り読まれるものと思って提示する。逆に、鑑賞時は文字通り受け取るようにする。抽象的になってしまうが、自分の理解のしやすい旧来のセオリーに当てはめて鑑賞するのではなく、直訳直訳で映像を立ち上げていくようにする。これについては後述の鑑賞文で触れる。

見切り発車で「20周」と言ってしまったが、20項目揃うこととなった。はたから見れば逆張りの激イタかもわからないが、ここまでやれば句会で点が集まってしまうこともグッと減るように思う。句会で点を集めたい人は実践しないことを強くお勧めする。

最後は、尊敬する小山玄紀さんの『ぼうぶら』から。

卒塔婆の三本通る巣箱かな 小山玄紀
ある日山吹を圧縮してみたし
甲羅から壊れてゆくと日の盛
旅せむと胸の柱をばらしておく
彼等あをさぎの如くに花疲
避暑の姉妹それぞれにある鹿のイメージ

この人の俳句を見ると、新しい俳句の景色を広げようとゼロベースで戦っている人だと思う。既存のセオリーや調整はこの人の俳句には無い。

百合のある方と狐のゐる方と 小山玄紀

「文字通り」鑑賞したい。文字通り、百合のある方と狐のゐる方という二つの「方」がある。自分は谷を思った。谷の片方は「百合のある方」、もう片方は「狐のゐる方」である。百合と狐の世界が奇妙に分かれまた混じり合う、その狭間にいる作者が印象的である。

板倉ケンタ


【執筆者プロフィール】
板倉ケンタ
1999年東京生。「群青」「南風」所属。俳人協会会員。第9回石田波郷新人賞、第6回俳句四季新人賞、第8回星野立子新人賞。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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