ハイクノミカタ

白衣とて胸に少しの香水を 坊城中子【季語=香水(夏)】


白衣とて胸に少しの香水を

坊城中子
(『櫓櫂』)

 十数年前までは、香水は身だしなみの一つであった。特に夏は、汗の匂いを抑えるために香水を付ける。ブランドショップのショウウィンドウには美しい香水瓶が飾られ、街を彩った。香水は贈り物としても人気があり、選ぶ方も貰う方も胸がときめいたものである。近年は、香料アレルギーの方を考慮して香水を控える傾向にある。香害とも言われ、匂いの強い香水をつけていると注意を受ける。私が学生の頃の満員電車の車両は、香水の匂いで噎せ返るほどであった。男性の間でも流行っており「あら、香水変えたのね」と言うと「分かった?」などと喜ばれたものである。

 香料の歴史は古く、紀元前3000年頃まで遡る。メソポタミア文明の基礎を作り上げたシュメール人は、香りのする杉を焚き神への薫香を捧げていた。古代エジプト人は、ファラオの亡骸に香料を塗りミイラとして葬送した。日常生活でも身体や衣服、食べ物に香料を染み込ませ匂いを楽しんだことが伝えられている。

 古代ギリシアでは、入浴後に香油をからだに塗る習慣があった。入浴好きで知られる古代ローマの貴族は、浴室だけでなく寝室も香りで満たし、大量の香油を身体に塗り込んでいたらしい。

 現在の香水のようなものが生まれたのは、16世紀末。イタリアのフィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディチが、フランスのアンリ2世へ輿入れする際に持ってきたといわれている。香料をアルコールに溶かし吹き付けるタイプのもの。その後、悲劇の王妃マリー・アントワネットは薔薇の匂いの香水を愛好した。

 日本では、飛鳥時代に仏教の伝来とともに香が伝えられた。当初は、供香(そなえこう)として仏前に燻らすものであった。平安貴族の間で流行した薫物は、奈良時代に渡来した鑑真和上によって始まったとされる。沈香や白檀など数種類の香薬を調合して作り、着物、扇などに燻らせ匂いを付けた。

 『源氏物語』で語られる薫物合せ(たきものあわせ)は、調合した練り香を持ち寄り、匂いを競う遊びである。当時は、自身の持ち物に香をたきこみ、風流人であることをアピールした。交換した扇の匂いを嗅ぎ、相手の身分や趣向の高さを確認した。匂いはファッションの一部なのである。

 「宇治十帖」の主人公薫の君は、生まれながらにして身体より芳香を発していたという。その香りは、百歩離れたところまで感じられた。薫の君に対抗心を燃やす匂宮は、香マニアであり、様々な香薬の調合にいそしんでいた。ある時匂宮は、薫の君がひそかに宇治に囲っている浮舟の存在を知り興味を抱く。闇夜の晩、薫の君の香りをまとい浮舟の寝所に入り込む。ライバルの恋人を寝取るために同じ香りを調合したのだ。何も知らない浮舟は、匂いから薫の君がやってきたと思い関係を持ってしまう。翌朝、恋人を裏切ってしまったことに苦悩する浮舟なのだが、思慮深い薫の君とは違う匂宮の強引さに惹かれてゆく。

 香りとは、相手を特定するものなのである。人間の数倍の嗅覚を持つ犬は、匂いで相手が自分より強いのか弱いのか、敵か味方かなどを判断する。動物よりも五感が鈍い人間は、人工的な匂いで自分の存在を主張するのだ。

 とある恋愛調査によると人間の男性は視覚で恋をするという。視力の良し悪しに関わらず動くものに反応する。揺れるイヤリングや風に靡く髪、ひらひらとした衣服など。指先の動きや仕草などにも興味を持つ。言われてみれば、夫は私の顔の動きで体調を察してくれている。対して女性は、嗅覚で恋をする。安心する匂いや野性的な匂いなど。嫌いな匂いにも敏感でどんなに気が合っても好きになれない人がいる。臭いから嫌いというのではない。匂いの好みは人それぞれである。父親と似た匂いの男性に惹かれるとの報告もあった。

  白衣とて胸に少しの香水を   坊城中子

 作者は、高浜虚子の孫。俳人で華族出身の坊城としあつに嫁いだ。聖路加国際病院に勤務し、総婦長を務め、『花鳥』の主宰になる。看護師や患者を俳句の世界へと誘った。

 私の母は看護専門学校の教員であった関係で、聖路加国際病院の実習の際に色紙を書いて貰った。「私の娘が俳句を詠んでいる」と告げたら即興で詠んだという。〈気にならぬものに枯菊乱れとは 中子〉。この色紙は家宝として実家の玄関に飾られている。

 看護師を母に持つ私は、幼い頃より病気がちで月に一回は病院の世話になっていた。診察室で若い看護師に「まあ、篠崎先生のお嬢さんね」と言われるのが嬉しかった。体温計を計る際に漂う女性の甘い匂いに憧れを抱いた。当時の看護師は薬の匂いや血の匂い、食事を運ぶ際についた匂いを消すために香水を付けていたのだろう。二十歳の頃であろうか。一人暮らしをしていた私に母が教え子から中元で貰ったニナリッチの香水を転送してくれた。不思議な形をした緑色の壜に入っている香水は安らかな香りがした。私が香水マニアであることを知っていた母が淡い匂いの香水をつけるよう誘導したのである。

 中学時代、制汗スプレーが流行った。ムスクやフローラルの香りが好きだった。高校生になると薔薇の香水に溺れた。母からは臭い臭いと怒られた。恋人からも怒られた。様々なすれ違いにより別れた恋人であったが数年後突然連絡がきた。接待で隣に座ったホステスから薔薇の香水の匂いがして思い出したという。

 そんな私もまた、バーで出逢った営業マンに溺れ、振られた挙句に大嫌いになってしまう。5年ほどして友人の結婚式で意気投合した芸術家が別れた営業マンと同じ香水をつけていた。匂いが気に入らなくて振ってしまった。先天的に好きな匂いもあるが後天的に嫌いになってしまう匂いもあるのだ。

 何のドラマであったか忘れてしまったが、貞淑な妻は深夜に帰ってくる夫が脱ぎ捨てた衣服の匂いを嗅ぎ浮気を察する。上着についた匂いは接待のナイトクラブの匂い。ワイシャツの肩についた匂いは浮気の匂いとなる。女性の部屋で上着を脱ぎ、くつろいでいる際に甘えてきた髪の匂いである。洗い髪のシャンプーの匂いだ。シャンプーは、メーカーにより匂いが異なる。夫の交流関係を調べあげた末に浮気相手を特定してゆく。嗅覚が鋭い女性ならではの推理である。匂いに鈍感な男性は、注意が必要だ。

 香水を嫌う男性も多いのだが、芳しい匂いには惹かれるものだ。就職したばかりの頃、名刺入れに匂い袋を入れていた。京都で購入した白檀の香り。営業先の男性はその匂いに釣られ契約を結んでくれた。日本人の好む記憶の匂いだったのであろう。「契約書までいい匂いがする」と言われた。異動の挨拶に伺った際も新しい名刺の匂いを嗅ぎながら「この匂いに逢えなくなるのは寂しい」と口説かれた。視覚重視の男性にも匂いは有効である。

 清純なる白衣の天使もまた、自身の匂いを纏っていた時代がある。現在では、医療従事者は香水を禁じられている。掲句は自分のことなのか、後輩看護師のことなのかは分からない。〈少し〉なのが看護師らしい。〈胸〉に垂らすのは、患者の目線でかがんで話を聞いたり、支えて歩いたりするからであろう。接する人に不快な匂いを与えないための気遣いである。看護師の仕事は激務だ。若い時にしか出来ない重労働。大抵の看護師は結婚を機に退職する。信念や根性のある女性のみが病院に残り出世する世界。結婚を夢見る若き看護師が香水をつけたとしても、とがめてはいけない。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔103〕きつかけはハンカチ借りしだけのこと 須佐薫子
>>〔102〕わが恋人涼しチョークの粉がこぼれ 友岡子郷
>>〔101〕姦通よ夏木のそよぐ夕まぐれ  宇多喜代子
>>〔100〕水喧嘩恋のもつれも加はりて   相島虚吼
>>〔99〕キャベツに刃花嫁衣裳は一度きり 山田径子
>>〔98〕さよならと梅雨の車窓に指で書く 長谷川素逝
>>〔97〕夏帯にほのかな浮気心かな    吉屋信子
>>〔96〕虎の尾を一本持つて恋人来    小林貴子
>>〔95〕マグダラのマリア恋しや芥子の花 有馬朗人
>>〔94〕五十なほ待つ心あり髪洗ふ    大石悦子
>>〔93〕青い薔薇わたくし恋のペシミスト 高澤晶子
>>〔92〕恋終りアスパラガスの青すぎる 神保千恵子
>>〔91〕春の雁うすうす果てし旅の恋   小林康治
>>〔90〕恋の神えやみの神や鎮花祭    松瀬青々
>>〔89〕妻が言へり杏咲き満ち恋したしと 草間時彦
>>〔88〕四月馬鹿ならず子に恋告げらるる 山田弘子
>>〔87〕深追いの恋はすまじき沈丁花  芳村うつぎ
>>〔86〕恋人奪いの旅だ 菜の花 菜の花 海 坪内稔典
>>〔85〕いぬふぐり昔の恋を問はれけり  谷口摩耶
>>〔84〕バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ 上田日差子
>>〔83〕逢曳や冬鶯に啼かれもし      安住敦
>>〔82〕かいつぶり離ればなれはいい関係  山﨑十生
>>〔81〕消すまじき育つるまじき火は埋む  京極杞陽
>>〔80〕兎の目よりもムンクの嫉妬の目   森田智子
>>〔79〕馴染むとは好きになること味噌雑煮 西村和子
>>〔78〕息触れて初夢ふたつ響きあふ    正木ゆう子
>>〔77〕寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ   小路智壽子
>>〔76〕服脱ぎてサンタクロースになるところ 堀切克洋
>>〔75〕山茶花のくれなゐひとに訪はれずに 橋本多佳子
>>〔74〕恋の句の一つとてなき葛湯かな 岩田由美
>>〔73〕待ち人の来ず赤い羽根吹かれをり 涼野海音
>>〔72〕男色や鏡の中は鱶の海       男波弘志
>>〔71〕愛かなしつめたき目玉舐めたれば   榮猿丸
>>〔70〕「ぺットでいいの」林檎が好きで泣き虫で 楠本憲吉
>>〔69〕しんじつを籠めてくれなゐ真弓の実 後藤比奈夫
>>〔68〕背のファスナ一気に割るやちちろ鳴く 村山砂田男
>>〔67〕木犀や同棲二年目の畳       髙柳克弘
>>〔66〕手に負へぬ萩の乱れとなりしかな   安住敦
>>〔65〕九十の恋かや白き曼珠沙華    文挾夫佐恵
>>〔64〕もう逢わぬ距りは花野にも似て    澁谷道
>>〔63〕目のなかに芒原あり森賀まり    田中裕明
>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え    鷹羽狩行
>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉  長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数    辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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