小谷由果の「歌舞伎由縁俳句」【第9回】河竹黙阿弥の七五調と五七五

【第9回】
河竹黙阿弥の七五調と五七五

(2025年5月歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」)

先月、5月の歌舞伎座は、尾上菊之助改め八代目尾上菊五郎と、尾上丑之助改め六代目尾上菊之助の親子同時襲名披露であった。

演目は、昼の部が『寿式三番叟』『勧進帳』『三人吉三巴白浪』『京鹿子娘道成寺』、夜の部は『義経腰越状』『襲名披露 口上』『弁天娘女男白浪』。

そのうち、襲名披露狂言の『三人吉三巴白浪』と『弁天娘女男白浪』は、河竹黙阿弥の書いた白浪物と呼ばれる作品である。

河竹黙阿弥とは
河竹黙阿弥は、1816(文化13)年に生まれ、江戸幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者である。

日本橋の商家越前屋勘兵衛(本姓吉村)の長男で、本名は吉村芳三郎。

早くから遊興を覚え、14歳の時に柳橋で遊楽中を家族に発見されて勘当を受け、17歳で京橋の貸本屋後藤好文堂の手代となった。ここには人形浄瑠璃の丸本や歌舞伎の台本が特に充実しており、あらゆる本を読みあさった。また芝居小屋にも出入りし、楽屋をのぞき稽古を見学し、狂言作者の仕事を覚えた。

1834(天保5)年、19歳の時に父が歿し、家業の質屋は弟にゆずり、貸本屋をやめて狂言作者になることを決意。踊りの師匠である澤村お紋(二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北に入門した。

1835(天保6)年、20歳の時に勝諺蔵(かつ げんぞう)と名乗り市村座へ出勤。しかし病などにより休座。その間本名の吉村芳三郎から「芳々(よしよし)」と号し、狂歌・戯文・雑俳・茶番・三題噺・絵合せなどに興じ、雑俳の点者として芝の明神前へ『千羽鶴』という点者の店を出した。雑俳とは、俳諧から派生した遊戯的な雑体の俳諧の総称で、五七五の十七音である。

1838(天保9)年、23歳の時に河原崎座へ移り、七代目市川團十郎と出会う。1840(天保11)年3月に『勧進帳』が初演された際、諺蔵(のちの黙阿弥)は科白を全て覚え、弁慶を演じた團十郎の後見として台本を持たずに團十郎を助けたことで強い信頼を得て、出世の機縁となった。同年弟の死により一旦河原崎座を退座。翌年の1841(天保12)年には家業を整理して再び狂言作者として河原崎座に入り、柴晋輔と名乗った。

1843(天保14)年11月、二世河竹新七を襲名し、河原崎座の立作者となった。

白浪物とは
白浪物とは、盗賊が活躍する世話物の狂言のこと。白浪が盗賊のことを指すのは、後漢時代に「白波谷」にたてこもった盗賊集団の白波賊の故事に由来する。

幕末当時は封建社会が崩壊する直前で無警察状態となっており、盗賊も横行。その世相を反映し、1854(安政元)年に四代目市川小團次に当て書きして新七(のちの黙阿弥)が改訂した『都鳥廓白浪』(忍の惣太)が大当たり。以後新七は「白浪作者」、小團次は「白浪役者」と呼ばれるほど、白浪物を多く書き下ろし、小團次の人気は沸騰。新七は名声を不動のものとし、河原崎座だけでなく江戸三座を兼任する作者となった。

1860(安政7)年、新七と小團次の提携による作品群の一つとして『三人吉三廓初買』が市村座で初演されたが、初演時にはあまり評判にならず、吉原遊郭の部分を省略し、外題も『三人吉三巴白浪』と変えて再演した際に大当たりとなった。この『三人吉三巴白浪』の中のお嬢吉三の科白が、歌舞伎の名科白としてよく知られている。

月も朧に白魚の
篝(かがり)も霞む春の空
冷てえ風も微酔(ほろよい)に
心持よくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽
塒(ねぐら)へ帰る川端で
棹の雫か濡手で粟
思いがけなく手に入る百両
ほんに今夜は節分か
西の海より川の中
落ちた夜鷹は厄落し
豆沢山に一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわえ

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