【書評】茨木和生 第14句集『潤』(邑書林、2018年)

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微かなる日差と生きる
:茨木和生 第14句集『潤』(邑書林、2018年)

【「雉」にはじまり「雉」に終わる句集】

この句集には野鳥を詠んだ句がいくつか収められているが、万葉集に馴染みがある人なら、そのなかでも日本の国鳥である「雉」がかつて「妻恋鳥」という異名をもっていたことを知っていることだろう。

  頼みたる雉の届きし幸木
  堪へゐし雉足許を飛び立てり

と前半に作者の愛着のまなざしを注がれるこの野鳥は、中盤ではしばらく姿をあらわさず、再び姿を見せるのは奥方が逝去してすぐ後のことだ。

  雉鳴けり妻の棺を持ちをれば
  雉の声棺の妻に聞かせけり

奈良生まれの作者にとって、雉が妻恋の象徴であることは自明なことであり、それゆえに、この句集は雉に始まり、雉に終わると言ってよい。

雉の鳴き声や「母衣打ち」とも表記されることがある雉の羽ばたきには、作者の妻を恋う心情が託されていると書くのは、やや凡庸が過ぎるであろうか。

【いつも、すぐそばにいる「妻」】

雉が国鳥と定められたのは、まだ占領下の昭和22年のことである。

選定したのは日本鳥学会であり、「メスは母性愛が強く、ヒナを連れて歩く様子が家族の和を象徴している」というのが理由のひとつだったが、しかしながら、この句集を読んでいる者の前に、妻のイメージは旧守的な良妻賢母というよりはむしろ、「飾らなさ」が魅力の素朴な女性としてあらわれる。

虫出しの雷にも妻は寝てゐたり

は、山間部の豊かな自然のなかで暮らしているなかで、夫である作者から見ると、妻もまた(やや鈍感な?)「野生」の一部として捉えられていて微笑ましい。

  妻恐れゐし雀蜂打ち殺す

では、「打ち殺す」の主体が妻とも読めるが、これは夫である作者と読むのが妥当だろう。なにせ相手はスズメバチである。油断は禁物だ。

しかし、業者を呼んで駆除を依頼していては埒が明かない。生き物を「打ち殺す」ことで生まれる信頼関係がここにはある。だが、それで終わりではない。

  なかなかの面蜂酒の雀蜂

に見られるように、死してなお人間を脅かすスズメバチの面構えは、彼らを取り囲む自然の力を暗示する。

とはいえ、臨終の前後を詠んだ「平成三十年」をのぞけば、この句集において妻が描かれることはむしろ稀であり、それゆえに夫婦の関係性にこれ以上踏み込むことは、少なくともこの句集を読む限り、読者に許されていない。

妻がたびたび詠まれているにもかかわらず、読み手が作者の妻へと接近することは禁じられているのである。

本書の装丁に使われているのは、奥方のトールペイントの作品であり、彼女は制作のためにアトリエの中に籠っていたことが想像される。したがって、著名な俳句結社の主宰である作者が、全国を駆け巡るほど、妻の姿は遠く、隠されたものになっていく。

そのため、読者がこの句集を通じて感じるのは、作者の妻への直裁的な思いというよりは、むしろ「夫婦の(ほどよき)距離感」なのである。

つまり、奈良の自宅近辺にいることが思われる句の中には、妻の姿が隠れて描かれているのだ。言い換えれば、前半から中盤にかけての句群にこそ、むしろ愛する妻は偏在している。終盤に

  わが妻もあの世の人に万愚節

という句が収められているが、逆説的な言い方をすれば、妻の死が自覚されるというプロセスを通じ、作者が詠む日常の景のなかに(直接的には描かれていないはずの)妻の姿が透けて見えてくる、という奇妙な事態がこの句集では生じているのである。

【師・右城墓石の妻恋の句を追って】

本句集を手にするとき、やはり先師である右城暮石の妻のエピソードを思い起こさずにはいられない。

『右城暮石の百句』(ふらんす堂、二〇一八年)を刊行するにあたり、作者は現在の自分の境遇をかつて師が置かれていた状況とも重ね合わせていたはずで、ともすれば作者の妻もそのような(癌の発覚後も「運河のために句会は休まないでね」と気丈に言い続けておられたという)話を知っておられたかもしれないからである。

〈妻の遺品ならざるはなし春星も〉という暮石の句は、

   残されしわれも遺品か春の星

という句と当然のことながら響き合っているが、ここでは俳句における季語の刻印性と、濁世に残される男の悲哀を改めて思わされる。

【「日差」の両義性】

また同時に、この句集では「日差」という言葉が、奥方の病状の進行と比例して多く用いられていることにも注目したい。これは本書を読み進めていくうえでおそらく多くの読者が勘づくことでもあるのだが、「日差」はこの世界に対し、単に物理学的・生物学的にエネルギーを生み出すための物質という通常の役割を担っているだけではない。

もちろん、「日差」は第一義的には生物に力を与えてくれるものだ。

  地に日差広がり来たる山桜
  日差遍くて野鶏の鳴きにけり

など、そのような例は確かに少なくはない。

しかし日差が地に届くには、遮るものがあってはならず、山中にはそう光が届くものではない。その点で、

  春の滝いちにち日差届かねど

は、滔々と流れる春の水の勢いを感じさせるが、その水のエネルギーに「日差」は関与していない。

  薄雲に日差隠れて栗の花

も同様である。句集全体を通して、「日差」はエネルギーの源として、あるいは一種の力の象徴として反復される一方で、エネルギーとしての日差=光が不在でもなお、絶え間ない水の流れや雲の動き、星の無垢な輝き、場合によっては、とどまることを知らない闇の深さなどが、かえって「生きる力」を与えてくれるように思われてくる。

 そのようにして編まれた本句集の末尾に置かれた

  息絶えてゆく春日差傾きて

を振り返ってみよう。この句は、妻の衰弱と日差しの衰えを重ねた至極単純な句であるという評価はけっして不当なものではない。

【俳句とは「死を見送る力」である】

しかし、本当にそうであろうか。この句における「日差」もまた両義的に用いられており、エネルギーというポジの存在であると同時に、光とは別のエネルギー源の存在を暗示するネガでもあるのではないだろうか。

じじつ、作者は妻の死を悼みながらも、それを俳句として残し、「生きる力」としているではないか。それは冒頭に置かれた、おそらくは妻と同じく女として生を受けた四人の孫たちを彷彿する

  春着着て童女の笑みのおのづから

と同程度か、あるいはそれ以上に、作者にとっての「生きる力」となっているのではないか。

生きるということが、死を見送るということであるのなら、「生きる力」というのは、「死を見送る力」と同義である。そして十分に俳句は、そのような力を誰しもに与えてくれる文芸なのである。

もちろん、リアリズムを押し出して、死を悲しく、おぞましく、悲惨に描くかどうかは、作者の趣味に委ねられている。

ただし、その場合さえ、〈双子なら同じ死に顔桃の花 照井翆〉のように、どこか救いのある現実として描き直されることで、一句は作者を含む生者たちの「生きる力=死を見送る力」となるのが、おそらく俳句という形式なのではないだろうか。

茨木和生の場合、妻の死を過剰に悲しむわけでなく、かといって宿命として易々と受け入れているわけでもない。

近年、話題ともなった〈一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子〉のように、季語とそれを支える措辞の付かず離れずの関係性――一言でいえば、季語中心的な構成主義――を前面に出した美学からもほど遠い。やはり妻喪失の句集である『知名なほ』に収められた〈妻と会ふためのまなぶた日向ぼこ 伊藤伊那男〉のように劇的誇張=見立ての句でもない。

やや散文的というと聞こえが悪いかもしれないが、人間臭く、飾らず、そのときの思いを平明な言葉で「そのまま」詠む、それが茨木和生の美学であるように思われる。

【「山桜」は茨城和生の代名詞】

  水替の鯉を盥に山桜
  大袈裟に咲くものあらず山桜

など、これまでにも多く山桜を詠んできた作者だが、本句集にも山桜はたくさん詠まれている。

  日差よく受けゐて散らず山桜

ただでさえ葉が出るのと同時に花が咲くことで華やかさを欠く山桜。平地の桜と違って、強すぎる日差は禁物なのだろう。

日差はここでも過剰なものであり、それでもなお、咲き続ける山桜の生命力こそが讃えられている。わずかな光でも生きていけるが、強すぎる光にも負けずに生きていける山桜のエネルギー。

「日差」の両義性を詠んだ句として、この句が全体のなかで最も印象に残るのは、そこに山国に生きる作者の感受性が凝縮されているからだろう。

  大阪は日差に蒸せて鱧の皮

は、炎暑とは限らず、山国から大阪の船場町に降りていけば、「日差」の強さの違いに身体が驚いてしまうにちがいない。

  電気大事に使ふ山家の遅日かな

都会であれば、夕方だからとまだ暗くなってもいないのに電源のスイッチを押してしまう時間帯に、山間では「遅日」さえも惜しみなく使う生活の一端が描かれる。これも作者の「日差」への感受性を象徴する句である。

これらの感受性を支えているのは、言わずもがなのことだが、作者の健康である。その意味で、

  耳も目も衰へをらず明の春

という句こそ、齢八十歳となる直前に上木された本書の要となっているとも言える。うまいものを食い、いろいろな人と出会い、つつましく生きる。作者の耳目は、自然の運行へとつねに開かれている。

(「運河」2019年5月号)

【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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