澁柿を食べさせられし口許に
山内山彦
早い、早すぎる。十一月に入ってしまった。と、この一週間に何度思っただろう。
そんな、今年も二か月を切った最初の、そして、立冬前最後の金曜日です。
先週だったか、「ハイクノミカタ」土曜を担当している太田うさぎさんが、枝のついた柿の写真を見せてくれて、いただきものだけれど、甘いのか渋いのかわからなくて困っていると話していた。
飾るにはぴったりの本当に立派な枝の柿で、絵画のモチーフなんかにも喜ばれるような枝ぶり、実ぶり。ひひととおりそれを褒めちぎったのちに、悲しいかな、何か、手段があるのかもしれないけれど、そこに集まった我々には誰一人として知恵はなく、「食べてみたら」というあまりに雑な帰結を見たのだった。
集まっても知恵の出てこない三人というのはどこにでもいるらしく、しかも果敢にも齧ってしまったのがこちらの句である。
「渋柿」は「柿」という題の中でも、当初から「おいしくない嗜好品」というややこしい性質を持っているためか、あまり多くの例句を持たない。あったとてしても、甘く食べるための加工中であったりして、その渋さを正面から捉える句というのはなかなか難しい。渋さを言えば面白くなりすぎてしまって利がつくし、食べた経緯を語れば説明的になるのだろう。
掲句では、誰とは知らない渋柿を口にした人の口許に唐突に焦点を当て、事の経緯を語らないことで、その「渋柿」の持つ煩わしさから逃れている。
語られていないのは経緯だけではない。人物像どころか、顔のそのほかのパーツも、その不幸な口の何とも言えない形も、口から洩れた言葉も、詳しくは語られていない。
また、「口許に」として句を終わらせたことで、そのあとに続く展開も読む者の手に委ねられた。私たちに知らされているのは、「食べさせられし」とある被害・加害の関係だけだ。
俳句に記す事柄としては、ちょっと珍しいこの「食べさせられた」という情報が、読む者の経験を刺激し、本来描かれるはずのさまざまの情報、誰でも一度はある渋柿をかじってしまった時の味覚さえ導き出す。
「食べさせられてしまっ」て、苦くて口も閉じられないけれど、怒り出すわけにはいかなくて笑ってしまっているようなところが、私の想像だけれど、みなさんはどのように読まれただろう。
あの柿、どうなったかなと思いながら句を見るうちに、食べてみようかと思わせられるのも(られないか)、この句の不思議な引力である。
『晴泉』所収 (1993年、山内山彦・著)
(阪西敦子)
【お知らせ】
11月7日(土)11:00からのNHKラジオ「文芸選評」に出演します!
ゲストは吉田類氏です。
https://www4.nhk.or.jp/bungeisen/
兼題は「立冬」、ネット投句はすでに締切りましたが、お時間ある方はぜひ聴いてみてください。
【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。