貴公子とはいえど、俗世も詠む。第二句集『あめふらし』の後書きには、「俳句をもとの純粋性と大衆性のある立場にもどす」と述べた上で、俳句は「一部の専門俳人のためだけにあるものではない」と記す。大衆的な視点、俗っぽい句は、句材を広げるとともに、俳句は難しいものというイメージを覆した。
ゴールデン街より電線の秋の空
寒き電線絡み入るスナック純
四畳半ほどの話やおい熱燗
冬の夜の伊邪那美の艶話かな
朧夜を溺るる月とPARCOかな
某の妾宅といふ茂りかな
恋の句は、虚実ないまぜで、どこまでが物語でどこからが現実か分からない。恋とは、夢とうつつのあわいでなされるものなのだ。そして、恋とは俗なものであり、純粋なものでもある。
純情の手紙を出すや雲の峰
逢ひたくて枯木の洞をちよと覗く
絵踏してよりくれなゐの帯を解く
恋猫の貘と逢引してをりぬ
ももいろの舌が嘘つく春の朝
恋の句ではないが、女を写生した句も多い。様々な女が絵画的に詠まれており、その視点は、常に女の美を追い求めた。『源氏物語』の光の君のように。
平凡な美人きらきら花水木
芍薬やまぬがれがたき女あり
喇叭飲みして美しき夜店の娘
よく動く喉の女やソーダ水
夜祭の中のあの子を見てをりぬ
その中にもつとも白き夏帽子
夏のれん越しに頬杖つく女
見失ふ四万六千日の女
ぶんなぐる香水の香にすれ違ふ
女人らの背中は白し夏の雨
蟷螂を女と思ふ柳腰
すつぴんの顔美しく畑を打つ
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