瀧壺を離れし水に歩を合はす
藤木倶子
「滝壺」へと落ちた滝の水は、さっきまで恐ろしいスピードで落下していたことをもう忘れたかのように、落ち着きを取り戻し、ゆっくりと流れてゆく。
何らかの自然物に歩調を合わせるという句はいろいろあるが、「滝壺を離れし水」というのは、ほとんど動きがないために、それなりに高齢の作者を想像させる。能動的に「合はす」といいながらも、どこか自然物のほうが自分のスピードに寄り添ってきたような一面も感じられる。
ただ単に水の流れだけを言っているのではない。滝の間近は、当然ものすごい滝音がするが、そこから離れれば、そのぶん音も遠のく怒涛の滝音も鎮まり、雑念が消え失せていくような内的な感覚も感じられる。この句のよろしさは、作者が「水」と調和していく、ただその一点にある。
そもそもの話として、自然には自然のリズムがあり、人間には人間のリズムがある。
「滝」は人間とって、過剰なものである。音も勢いもすべてが過剰である。そのエネルギーは人間のコントロールをはるかに超えている。しかし、「滝壺を離れた水」は、人間の側が合わせられる。滝との距離感を、時間の経過も含めて、さりげなく描いている。
作者は青森で「たかんな」を主宰した。掲句で描かれているのは、おそらく十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流だろうか。
深い自然林におおわれた奥入瀬渓流には、千変万化の水の流れがある。渓流に沿って流れとほぼ同じ高さに車道と歩道がつくられ、尾根や山腹の道から渓谷を眺めるのとは、また趣の異なった景観を味わうことができる。
足下に気をつけながら、一歩一歩、森林散策を楽しんでいるような、マイナスイオンたっぷりの句である。
句集『星辰』所収、平成21年作。
(堀切克洋)
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