秋蝶のちひさき脳をつまみけり
家藤正人
夏井いつきのYoutubeチャンネルを見ると、夏井の横に座っている彼、最初はマネージャーか何かと思いきや、息子さんだった。そう言われて見直してみると、たしかに目元のあたりが似ている。
さて掲句、標本づくりに勤しむ少年時代の回想句だろうか。
チョウの体を壊さないように、慎重に展翅板に乗せ、少しずれてしまった頭部をピンセットでそっとつまみ、位置を調整する。そんな瞬間を思い浮かべた。
「ちひさき脳をつまむ」ことに関心を寄せるのは、人間の「知性」のはたらきの一種なのだろう。知性とは、いつだって残酷なもの。
それも「夏蝶」ではなく、個体数が減って、飛び方にも勢いがなくなる「秋蝶」を標本にしているのだから、なおさらのこと。
「虫めづる姫君」というのは、時代を通じて例外的な存在で、このような残酷な知性は、いくぶん性別に拠っているようにも思う。
残酷、残酷と書いているが、昆虫採集をして標本づくりをしている当人からすれば、それは無邪気なものだったはずだ。
しかしこうして句にしているところに、そうした「無邪気さ」に対する批評的な目線があるといっていい。
高精度のカメラで「ちひさき脳」がズームで映し出されるのを見ているときのような、いたたまれなさ、ヒリヒリするような感覚。
かつての山口誓子の「非情」の句にも少し通じるようなところがある句でもあると思う。
ふつうの人は蝶々にも「脳」があることなど意識しないし、そもそも知らなかったりする。ましてや、「つまむ」という場面はなかなか体験しない。
(堀切克洋)