業(カルマ)を流すための旅へ
――中原道夫 第13句集『彷徨』(ふらんす堂、2019年)
堀切克洋(「銀漢」同人)
「銀化」主宰の中原道夫(1951-)の第13句集。昨年、設立20周年を迎えた「銀化」の記念事業の一貫でもある。1987年から2018年までの約30年間の海外詠だけを収める。句集タイトルは「さまよう」でも「ほうこう」でもなく、「うろつく」と読む。
突然だが、句集は「編集」である。
圧倒的に多数の句集は、「時間の流れ」に委ねられている。四季の移ろいに感性を研ぎ澄ませるのが、俳句の作法のひとつなのであるから、それは自然に叶ったことなのかもしれない。
しかし、時系列の(=クロノロジカルな)編集には欠点もある。思うにそのひとつは、句集に収められた年月の区切りの蓋然性であろう。どうしてこの区間の歳月が収められているのか、という問いを最初から放棄しているような句集も少なくない。狭隘な世界のなかで「高い評価」を得た句を集めただけで、作者の「俳句史」に対する態度のようなものが見えにくくなったままであるのは、せっかく出版をしたというのに、なんだか勿体ない気がする。
一方には、アンソロジーという形態もある。「花摘み」された(=アンソロジカルな)編集には、何らかのテーマに沿って寄せ集められた作品が並ぶ。ごく最近でいえば、『新撰21』(邑書林、2010年)『超新撰21』(同、2011年)『俳コレ』(同、2012年)『天の川銀河発電所』(左右社、2017年)のように、年齢の若い作家を紹介するというもの、あるいは櫂未知子『食の一句』(ふらんす堂、2005年)、片山由美子『色の一句』(同、2008年)、山西雅子『花の一句』(同、2011年)のように、句の素材や切り口に焦点を当てるというやり方もある。
アンソロジーの欠点は、明確なテーマ設定がもたらす限定性である。若い作家はいずれ年をとるのだし、収録されなかった優れた作家がいたことにあとから気づくということもあるだろう。「食」や「色」や「花」は、たしかに俳句における典型的な素材であるが、あくまで俳句が描き出す世界のごく一部にすぎず、また鑑賞に寄り添うには、それなりの経験も求められるだろう。つまり、アンソロジーは最初から通俗性を免れえない。作家の個性は相対化され、作品もまた相対化されるという運命にあると言ってもいい。
前置きが長くなったが、中原道夫の第十三句集『彷徨』には、彼の海外詠が収められている。つまり、多くはすでに刊行されている句集に収録されている句なのである。世界各地を渡り歩く「現代の徘徊師」の一面を垣間見ることができるが、作品は経年順に並べられている。したがって、この句集はクロノロジカルな句集でありかつ、アンソロジカルな句集なのである。
だが、このご時世、海外詠はそれほど珍しいものではない。句集として出版され、さまざまな人の目に触れるかどうかは別として、日本国外で俳句をつくりつづけている人もまたけっして少なくないからである。
そのなかにあって、中原道夫の句業の最大の特徴は、「活字」の編集であると言っていい。
編集に携わってみればすぐにわかるが、原稿がそのまま印刷に回るわけではない。「活字」のレベルに限定してみても、誤字や変換ミスがないか、ルビは必要か、漢字をひらがなにしなくてよいかなどなど、実に多くの選択肢がある。筆者の活字に関する知識やこだわりもまた、判断材料のひとつになる。編集者というのは、たいへんな仕事なのだ。
この句集に限らず、中原道夫は(戦前まで通用されていた)旧字体を使いつづけているが、活字の操作はそれだけではない。まっさきに目につくのはルビである。「酢漬けキャベツ」と書いて「ザワークラウト」、「貼り合は(せる)」と書いて「コラージュ」、「EST! EST!」と書いて「東へ 東へ」、「ありがたう」と書いて「シュクラーン」とふりがなを振っている句を以下に引こう。
蝶孵(かへ)し酢漬けキャベツ(ザワークラウト)とやならむ
昔日の雲亂貼り合は(コラージュ)せる時間
斯くなるはEST! EST!(東へ 東へ)といふ新酒
ありがたう(シュクラーン)葉付の蜜柑手に乗せて
通常、ルビとは活字の「補助」である。つまり、活字本体が主として存在し、その読みを補うものとしてルビがある。新聞や総合誌などでは、常用漢字かそうでないかという基準にすることが多いようだが、ルビの使用に明確な基準はない。小学生向けの読み物には、漢字にルビが振ってあることが多い。これらの場合は、漢字が本来「読み」を持っているにもかかわらず、それが読めない(=ゼロになっている)から、ルビで読みを「補う」のである。
しかしご覧のように、上のような句では多くの場合、ルビは「補助」ではなく句の「本体」となっている。先に「ザワークラウト」「コラージュ」「シュクラーン」という外来語が先行しており、そのあとで「酢漬けキャベツ」「貼り合は」「ありがたう」という和訳が生まれている。つまり、日本語のほうが「補助」の役割を果たしているのである。「読誦」と書いて「コーラン」と読ませたり、「革草履」と書いて「バブーシュ」と読ませているのも同じことだ。ただし、多くの場合それほど音数が変わらないため、どちらで読むかは読者に任せられているという面もある。
これらは、なんでもかんでも(アイデンティティやらコンプライアンスやらセクシュアルハラスメントやらドメステイックバイオレンスやら)カタカナのままで、外来の概念を導入してしまう(ことのできる)現代日本語に対する批評性となっているとひとまずいっておこう。圧倒的な文化的距離のなかで他我を接近させながら、新漢語を作り出し、新概念を紹介しつづけた明治期の文化を彷彿とするともまたいっておこう。
その点で、三句目の「EST! EST!(東へ 東へ)」はちょっぴり違う。これは、おそらくワインか何かのラベルに「EST! EST!」と書かれていたのである。外国語が先行していることは同じであるとはいえ、文字(活字)としての外国語なのである。したがって、この句の読み方は「ひがしへ ひがしへ」ではなく、「エスト!エスト!」と読むべきだろう。ただし、ルビと活字の関係が、上記の三句とは逆転しているが、日本語のほうが「補助」であるのは変わらない。ちなみにこの句には「マルコポーロの踐言とも」とある。
つまり、中原が行なっているのは、一種の「翻訳」の作業だということだ。外国の(多くの場合は庶民的な)文化を、みずからが生活する日本の文化へと翻訳し、その重なり合いを一句に仕立てているのである。こんな句もある。
急ぐ春でもなからう通してくだされ(スンマ・ヘンナ)
モロッコ中部の都市、マラケシュの旧市街南部にあるバビア宮殿での句。この句にはルビのみならず、「後書き=註」がついている。曰く、「ベルベル語で『通してください』はスンマ・ヘンナ、まるで関西弁」とある。通訳が笑いをとるために言ったことなのか、作者自身が「なんだか、すんまへんなー、って関西弁みたいだなあ」と横で面白がっているのかは定かではないが(※「なー」のところだけ高く発音する)、ここでは日本語の、それも一方言へとアラビア語を意味を経由せずに翻訳するという遊びが行われている。
このような「音」(シニフィアン)と「意味」(シニフィエ)の恣意性の遊戯の背後には、ふたつの一般原理が同時にはたらいている。ひとつは言わずとしれた「写生(描写)」であり、もうひとつは「挨拶」である。
海外詠であるというコンテクストをいったん括弧にくくれば、描写の目の効いた句は案外、多い。たとえば、次のような句である。
インディオの裔とおぼしき黍の餅(タマーレス)
食べ盡す一樹の枯れに樹獺(ナマケモノ)
ともに「寄生密林(パラサイトジャングル)『コスタリカ紀行 16句』」より。タマーレスは、コロンビア・メキシコなど中南米のスナックの一つ。日本でいえば、ちまきのような食べ物だ。この食べ物を供してくれた人の風貌が「インディオの裔」を思わせたのだろう。それは「黍の餅」という語が思わせる昔ながらの調理法と提供の仕方から、先住民族の生活へと想像を飛躍させたからでもある。道夫句の初期からの特徴のひとつである「見立て」が、壮大な歴史を抱え込んでいて記憶に残る句だ。そして何より、土地への挨拶ともなっている。
本書に収められた土地は、ニューヨーク、アイスランドからはじまっている。ヨーロッパを訪ね歩く句も少なくないが、しかし同時に中南米、中国、北アフリカ、インドといった欧米以外のエリアがやはり印象深い。
とくに近作の「妄執の櫂(インド2016・冬) 36句」では、冥界への接近を試みるような宗教性が前景化されていることに注目したい。ヒッピー回帰といえばそれまでだが、旧漢字やルビ・前書き・後書きの多用という形式的な饒舌さは、おそらく、このような中原自身が信ずる「死後」の世界観と響き合っている。
沖つ舟みづとり死骸へと群るる
荼毘を待つ屍衣に降りたる霜の花
業(カルマ)流せと鰾(ふえ)なき雑魚売り来
鰾なき魚=二度と浮き上がらない魚の意
供花まみれ男根神(リンガ)に冬日粘るかな
中東・ヨーロッパ的な一神教の、つまり砂漠の世界の宗教がもたらす死のイメージとは完全にかけ離れた、湿度の高い、鬱蒼とした、曼荼羅のような、アジア的な死の世界。中原が信ずるのは、原罪ではなく「業(カルマ)」なのである。もっとも、最初から「業を流す」ための旅だったわけでない。この句集の前半までは、よくも悪くも「旅行者的」な句が多い。少なくとも表面的にそれが変わりはじめるのは、2014年のモロッコ詠あたりからではないだろうか。
安息の地などはあらぬ流星雨
のどかなる断頭の山羊嗤ひ貌
迫害の世ならば蝶と化す手練
春はあけぼの屠殺直後を運び来る
はるのみづ獣血低きへと誘ふ
もっとも、これらは何とはない日常の景である。しかし突如としてスーク(市場)に運ばれてきた山羊の頭は、まだ血が滴っており、それが「のどか」「春はあけぼの」という血とは無縁の世界に襲いかかる。悪趣味だといえばそれまでなのだが、しかしこれもまた世界の「日常」であり、私たちの世界で生き物の首を刎ねるということの持つ象徴性を考えさせるし、山羊のみならず、砂漠の宗教を信ずることの意味もまた思わずにはいられない。同じ2014年の末には、日本人ジャーナリストがISに拘束されて、命を奪われるという事態も起こった。
そして1年後には、テロ事件の翌日にパリに赴くという数奇な運命をたどることになる。〈わざはひの餞ならむ霜の花〉や〈無差別の無は神のみぞ知る霜夜〉。偶然にも、このタイミングでパリに留学していた私は、がらんどうになったパリの中心部で吟行をご一緒することになったのだが、さてはて、これもカルマというべきか。
【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。