月光にいのち死にゆくひとと寝る
橋本多佳子
一度だけ、仮通夜をしたことがある。
大学を卒業してまもなく、祖母が亡くなったときのことだった。
通夜の前日、祖母の安置されている葬儀場の一室で、何年も会っていなかった従兄弟とふたりで、布団を並べて一夜を過ごしたのだった。
もちろん、掲句の「いのち死にゆくひと」というのは、必ずしもまだ亡くなっているとはかぎらない。
自宅で療養中の親族と、今夜が最期かもしれない、という思いで床につく、という状況としても読める。
むしろ、「死にゆく」は、字義通りに受け取れば、まだ死んではいないのだから、そのほうが自然な読みかもしれない。
しかし、消灯した大きな部屋のなかで、一夜をともにした祖母は、わたしにとって、まさに「いのち死にゆくひと」だった。
その日の朝、祖母の自宅で息を引き取った祖母と対面したとき、母親が「なんだか、まだ爪が伸びているみたい」と呟いた一言が脳裏からはなれず、まるで子供が初めて「死」ということを意識するときのように、「心臓が止まっても、人間ってまだ生きてるんだなあ」と、とても素直に思ったのだった。
正確には、あれは夏の終わりの夜のことだったと思うけれど、暗い斎場の部屋には、まぎれもなく月の光が差し込んでいた。(堀切克洋)