【第4回】
近代化と弘道軒清朝体
木内縉太
●はじめに
前回の記事「【第1回】子規と明治期の活字〈後編〉」において、明治時代の活字を紹介した際、「共時的な視点が抜けていて片手落ちである憾みがある」と書いた。
ここでは、その共時的な視点を補完するものとして、楷書体活字の存在を示しておきたいと思う。
これも、子規の生きた明治という時代と活字の連関を照らし出したいがためであって、本記事では俳句の話には立ち入るに至らないこと、あらかじめ寛恕を乞うばかりである。
青年子規が、坪内逍遥に熱中していたことは有名であるが、逍遥の著作の多くが楷書体活字で組まれていることも見逃せない点である。これは逍遥の趣向を反映してのものであろうか。ともかく、逍遥の著作のように一書をまるまる楷書体活字で組むことは当時からしてもやや珍しいケースであった。
とはいえ、例えば二葉亭四迷の『浮雲』のように、序文を楷書体活字、本文を明朝体活字というふうに分けて組まれることは一般的であったと言える。
また、後述する弘道軒清朝体という楷書体活字は、明治14年からの約10年間、東京日日新聞の本文として使用されていた。
現代において本文組に利用されることは稀な楷書体活字であるが、当時は明朝体と比肩しうる支持を得ていたと言うことができるだろう。
続きを読む
1 / 4