【連載】ハイクノスガタ【第4回】近代化と弘道軒清朝体(木内縉太)

●山水画と近代

話が屈曲するようだがここで少し、山水画について触れておきたい。宇佐見圭司は、山水画について次のように述べている。

山水画という名称はここに展示されている絵画が実際に描かれた時代にはなく、四季絵とか月並と呼ばれていた。山水画は、明治の、日本の近代化を指導したフェノロサによって、命名され、絵画表現のカテゴリーの中に位置づけられるようになった。とすれば、山水画という規定自体は、西洋近代的な意識と、日本文化とのズレによって出現したということになる(「「山水画」に絶望を見る」『現代思想』昭和52年5月号)

さらに、こうも言う。

山水画における“場”のイメージは西欧の遠近法における位置へと還元されるものではない。(中略)山水画の場は、個人がものに対して持つ関係ではなく、先験的な、形而上的な、モデルとして存在している。

ぼくが、刀跡深い父型に山水画の峰々を見出してしまうのは、ここに近代と前近代の捻れが生じているから、と思えてならない。
つまり、おおげさに言えば、父型を、活版印刷に必要な一パーツとして即物的に見出してしまう近代的視座と、先験的で形而上的な字形を彫り起こそうとする信仰にも似た精神性を帯びた物として父型をみる前近代的視座との対置である。
夏目漱石が、運慶の彫刻を「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と表現したのに近いかもしれない。

しかし、ここでなぜ神崎らを前近代側に布置したかと言うと、弘道軒清朝体はその書体史的な位置付けにおいて前近代性を担っている近代の書体と考えることができるからである。
その前近代性は神崎らにとり意図的でないにせよ(むしろそれとは裏腹に近代性を志向していたにせよ)結果的に、前近代性を多分に含む書体となった、と言わざるをえない。

何が言いたいかと言うと、前近代性の強い弘道軒清朝体の、その父型において特徴が表れるのもしぜんの勢いと言ってよく、むしろ象徴的でさえある、と言うことである。

弘道軒清朝体の前近代性をもう少し詳しくみてゆこう。

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