「俳句のかたちにしていくときは、紙がいい」勢に注目
アンケートから、それぞれの「ノート類」の人数を見ていきます。
【種集め】では62人でしたが、【俳句をつくる】は85人、【推敲する】は75人でした。
つまり種集めなどのメモはスマホで気軽に行うが、「俳句のかたちにするときにアナログへ移行する」人が存在しているということ(私もその一人です)。
スマホにメモをしたワードを、そのままスマホ上で組み立てていくのではなく、「思考」をするタイミングで、あえて紙とペンを選んでいる、という、私と同じ工程を辿る人が、何人かいることがわかりました。
私はというと、咄嗟に思いついたフレーズやアイデアは、スマホにメモしていくのですが、「俳句をつくろう」と思うと、やはり紙とペンでないとその先に進むことができなくて、いつもそのスタイルです。
紙にペンで書いた方が、言葉が思いつく。俳句がちゃんと完成する。
あとは、推敲した形跡を残しておきたいというのもあります。スマホなどで文字を書いていると、つい癖で、元のテキストを消して推敲してしまうため、うっかり推敲前を見失ってしまわないように、紙に書いているのも大きな理由かもしれません。
書字に見る、「筆蝕は思考する」という視点
石川九楊著『九楊先生の文字学入門』(左右社)に、とても興味深い記述がありました。
この本は、手書き文字の深淵な魅力を12章にわたって体系的に紐解いていく一冊で、文に文法があるように、書字(文字を書くこと)にも「主語」や「述語」、「動詞」「形容」があると明確に示し、そうした視点から書字を読み解いています。
その中の「言語的接近=筆蝕は思考する」という小見出しの段落に、こうあります。
書字の厖大な課程の中で思考はずっと働いています。この言葉でいいか、ほかの言葉のほうがいいか、と考えつづけているのです。
たとえば、「雨」という字を力を入れたり抜いたりして書いていく。自分の字が下手でいやだ、そういう思いもある。そうしたことを通して「雨」でいいかどうかを考えているのです。その肯定しまた否定する精神的な容量、意識的な容量は、パソコン作文時のそれに比べはるかに厖大です。
(中略)
「雨」と書きはじめたとき、書字の微粒子的律動が始まります。このとき何が起きているのか。要するに「雨」を肯定しようか、あるいは否定しようかという力が働いています。文章をつくることは肯定と否定の争闘です。ひとつの言葉を書くことは、その言葉を肯定するか否定するかの選択に参加することです。
これを読んで、「手書きをする」という行為には、ただ文字を書いて記録する以上の、深い思考のプロセスが含まれていることに、改めて気づきました。
たとえば俳句をつくるとき、「紫陽花」という文字を一文字ずつ書いていると、「紫」や「陽」からも、花の雰囲気や空気感など、単語以上のインスピレーションを受けます。
スマホに入力すると一瞬で変換され、そのインスピレーションの段階は省略されてしまいますが、文字を書いているときは一文字ずつと関わり合うことができます。
ただ、一文字ずつ愛でていたのではスピードが遅すぎて、俳句はかたちになりません。
毎回そのプロセスを経ているというよりは、わりと無意識下で、何か手書き文字から受け取るものがあるのだと、引用の「雨」の文字の話を読んで思いました。
文字を自分の手で書きながら、おそらくかすかに何かを感じ、受け取りながら、その先に続くことばをひとつずつ探しているような感覚です。
また、漢字が思い出せなくて、とりあえず一度ひらがなで走り書きした俳句も、その後に漢字を調べて改めて漢字バージョンで書き留めつつ、「やっぱり、さっきのひらがなの方がいいな」とひらくこともあります。
このとき、私の脳の中は「ひらく」というより「もどす」という感覚が近いです。
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