死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気【季語=レタス(春)】

平成8年、今から30年ほど前、成瀬有主宰歌誌「白鳥」の歌人であった今泉重子(かさね)は、婚約者の鈴木正博の死後、後追い自殺をする。鈴木正博は、万葉集の研究者であり岡野弘彦氏に師事し短歌も学んでいた。岡野弘彦主宰「人」の解散後、「白鳥」同人となる。今泉重子は、鈴木正博より十歳ほど年下で大学院にて万葉集の研究をしつつ岡野弘彦氏に短歌を学んでいた。やがて「白鳥」に入会し、独身同士の二人は恋仲となった。結婚の一ケ月前、鈴木正博は、クモ膜下出血により死亡。準備中であった第一歌集『海山の羇旅』の草稿は今泉重子が作成し、同門の一ノ関忠人氏の編集により出版の運びとなった。鈴木正博の死からちょうど半年後、今泉重子は自宅の風呂場で頸動脈を断って自裁した。その日は、鈴木正博の誕生日でもあった。一ノ関忠人氏宛てに残された遺書には、生前、鈴木正博が「お前が死んだら俺も死ぬ」と言ってくれたこと。自分も同じ気持ちであったことが記されていた。若い女性歌人の後追いは、成瀬有主宰と「白鳥」の同人達、岡野弘彦氏にも深い傷を残した。遺歌集『龍在峠』が出版されたのは、今泉重子の死から十年後になった。

  夕かげる桜木のもとわが想ふひとりのために花よやすらへ  鈴木正博

  新しき手帳開きてまづ記す君の誕生日そして命日  今泉重子

私が「白鳥」に入会したのは、『龍在峠』が出版される二年前で、結社の歴史も何も知らなかった。当時の私はまだ大学院に在籍しており、文学踏査を兼ねた吟行では、大いにはしゃいで歩き回り、恋の歌などを詠んだ。奇しくも私の修士論文は今泉重子と同じテーマで、万葉集の鳥の研究だった。「恋なんていっときのことだから」とか「結婚が全てではない」などと諭そうとする、主宰や先輩達の気持ちなど知る由もなかった。危なっかしい恋の歌ばかり詠む私を主宰や先輩達がいつも不安そうに眺めていた理由を知ったのは、『龍在峠』が出版された時であった。私は、何があっても主宰や先輩達よりも先に死んではならないと決意した。ただ、短歌の道を諦め、俳句一筋になったことは今も申し訳なく思っている。

だから、いつも夫には言っている。「あなたが私よりも先に死んだら、もっと若くて金持ちの男と再婚してやる。だから長生きしてね」と。すると夫は「君が再婚できないほどの老婆になるまで見届けるよ」と笑う。また、「来世でも絶対に私を探してね」とも言った。執着心が強い夫だから、きっと探してくれるだろう。

  死がふたりを分かつまで剝くレタスかな  西原天気

作者は、昭和30年、兵庫県生まれ。東京在住。平成9年、42歳の頃に「月天」句会に参加し作句開始。「麦」「豆の木」を経て、平成19年よりウェブマガジン「週刊俳句」を運営。句集に『人名句集チャーリーさん』(平成17年)、『けむり』(平成23年)。令和5年、『音数で引く俳句歳時記』を編集(監修:岸本尚毅)。笠井亞子氏と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログに「俳句的日常」。インターネットでの俳句情報発信の先駆者であり、若手のファンが多い。

日常詠では、共感性の高い分かりやすい句を詠む作者である。

  はつなつの雨のはじめは紙の音

  マネキンが遠いまなざしして水着

  流れ星まぶたを閉ぢて歯を磨く

  マフラーを巻いて帯電したまへり

  囀りやサンダル履きで事務の人

  風船を貰はむとする大人かな

  春昼のたまごのなかの無重力

  行く春の煉瓦の互ひ違ひかな

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