市ヶ谷に消えぬ幻影憂国忌 吉岡簫子【季語=憂国忌(冬)】

市ヶ谷に消えぬ幻影憂国忌

吉岡簫子

十一月の風が、市ヶ谷のビルの谷間を抜けていく。
昼の光は澄んでいるのに、どこか硬質な冷たさを含んでいる。
その冷たさの中に、「消えぬ幻影」として何が見えているのでしょうか。

掲句は、1970年11月25日に自決した三島由紀夫の忌日「憂国忌」を詠んだ一句です。
「消えぬ幻影」については、何も語られていません。
そこに読者の心が静かに招き入れられます。
「三島の幻影」なのか、「失われた理想」なのか、それとも「自分自身の若き日の記憶」なのか。

作者はその多義性をあえて抱き込み、読む人の心の中に「像」を委ねています。
読み手の心の中で結ばれた像によって、初めて完成する俳句です。
それは、誤読の可能性と紙一重の危うさを孕みながらも、「読む人に委ねる」という俳句の本質的な信頼に満ちています。

市ヶ谷という土地に流れる歳月の中に、作者と読者の幻影が、静かに重なり合うとき、この一句は息づき始めるのでしょう。

菅谷糸


【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。




【菅谷糸のバックナンバー】
>>〔1〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
>>〔2〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
>>〔3〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
>>〔4〕ひさびさの雨に上向き草の花 荒井桂子
>>〔5〕破蓮泥の匂ひの生き生きと 奥村里
>>〔6〕皆出かけスポーツの日の大あくび 葛原由起
>>〔7〕語らざる墓標語らひ合う小鳥 酒井湧水
>>〔8〕焼米を家苞にして膝栗毛 松藤素子
>>〔9〕紅葉且散る街中を縫ふやうに 椋麻里子
>>〔10〕冬日和明るき影を作る石 岸田祐子
>>〔11〕階の軋む古城や冬紅葉 鳴戸まり子

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