寒いねと彼は煙草に火を点ける 正木ゆう子【季語=寒い(冬)】


寒いねと彼は煙草に火を点ける

正木ゆう子
(『水晶体』)

 人は沈黙を恐れる。知り合いの誰かと電車を待っている時やエレベーターで二人きりになった時など。何でも良いから言葉を発しなければならないのに浮かばないことがある。そういう時は、天候のことを言えば良いと教わった。「良い天気ですね」とか「冷えますね」とか。不思議とそこから会話は発展するものである。「雨が降りそうですね」などは、相手への気遣いにもなる。日本人は、本題に入る前に時候の挨拶をする習慣があるため、多少のよそよそしさはあるものの、話題の切り口としては共感を持たれる。

 俵万智に〈「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ〉という歌がある。何でもないことに相手が共感してくれた喜びを〈あたたかさ〉と表現したところに初々しさがある。寒ささえも楽しさに変わる慎ましやかな恋の始まり。ここで「そんなに寒くないよ」とか「寒いのぐらい我慢しろ」なんて言うような男であったら百年の恋も瞬く間に冷めたであろう。

 30歳の頃であろうか。淋しさや焦りを埋めるために逢っていた男性がいた。愛の告白などないまま何となくずるずると一緒に居た。自分のことしか考えない男性であったが、尽くすことが好きな私にはそれで良かった。理不尽な言動に堪えていることに満足を覚えた。恋に恋する女だったのだ。そんな私にもひょんなことから見合いの話が持ち込まれた。相手は国家公務員で家柄も良く年齢も吊り合う。写真もイケメン。一度会ってみたくなった。お互いに猫の皮を百枚ほど被っている見合いだ。再度逢う約束を交わした。その見合いを機に付き合っているのかどうかも分からない男性に別れを切り出した。「別れたくない。君が望むなら結婚しよう」と言ってくれたが、尽くすことに疲れていた私の心には響かなかった。「そうだ、寿司を食べに行こう。いつも一生懸命作ってくれた料理に文句ばかり言ってたから嫌われちゃったんだよね。今日は、高い寿司をご馳走するから、俺に対する不満をぶちまけてくれよ」。散々尽くしたのだから最後に寿司でも奢って貰おうなんて気持ちもあって食べに行った。寿司屋のカウンターは、足元に隙間風が吹き込んでいた。「寒いな」と男性は震える仕草をした。心が冷めていた私は同意することが出来なかった。「あなたはいつも文句しか言わないのね。お茶でも飲んだら」。その後は、お互い無言で寿司を噛んだ。無言、沈黙が気にならない仲、ああ、これが腐れ縁というものかと思った。

 見合いの相手とは数回デートをした。話題の店が好きな方で、寒風に曝されながら行列のできるとんかつ屋で一時間ほど並んだこともあった。楽しかったのだが、何かが違う。沈黙を恐れる性格なのか、絶え間なく語っていた。深みを感じない一方的な会話に飽きてしまった。流行っているスイーツの話とかブランド品の自慢とかよりも「寒いね」の一言が欲しかった。縮まらない距離を虚しく感じたのは相手も同じだったのだろう。恋が始まらないまま連絡を取り合わなくなった。

寒いねと彼は煙草に火を点ける
正木ゆう子
(『水晶体』)

 作者の正木ゆう子氏は、このたび第六句集『玉響』にて第75回読売文学賞を受賞された。私が俳句を詠み始めて間もない頃、第三句集『静かな水』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されている。現在、代表句といわれる〈いつのか鯨でありし寂しかりし ゆう子〉〈双腕はさびしき岬百合を抱く ゆう子〉は、私の作句表現に多大なる影響を与えた。〈かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す ゆう子〉〈水の地球すこしはなれて春の月 ゆう子〉このスケールの大きさは真似をしてはいけない。対して掲句は、ドラマのワンシーンのような分かりやすい恋の句である。芭蕉は「僧にあらず俗にあらず」と述べているが、俳句とは聖と俗のあわいで詠むものである。恋の句に至っては、俗を極めてこそ聖なる域に達する。恋の初めの神聖なる空間がこの句にはある。

 掲句は、「暑いね」ではなく「寒いね」だから恋が始まる。〈彼〉が「寒い」と言った瞬間に二人は恋の距離感を意識してしまう。妄想女子ならば「それって、もっとくっついて暖まろうってこと?」なんてことも考えるだろう。照れ臭ささを隠すように煙草に火を付ける〈彼〉。その仕草に昭和生まれの女子なら、悶絶してしまう。受動喫煙防止法が施行される前、煙草はポーズでもあった。会話が途切れた時や気持ちを落ち着かせたい時など。自身の焦りを相手に気付かれたくない時のクールな演出。それをクールだと捉えるか、照れているのねと捉えるかは、女子の気持ち次第。それ以前に、煙草を吸う男を格好良いと思うか、気遣いがないと思うかも恋の温度による。

 高校時代に交際していた男性は、二歳年上の社会人。初デートの時は、煙草の匂いが辛くて、彼の胸ポケットから煙草のケースを奪いゴミ箱に投げた。拾おうとする彼の腕に抱きついて恋が始まった。松田聖子の歌う「赤いスイートピー」ではないけれども、煙草の匂いのシャツに心臓が高鳴った。誰もいない真冬の湖に連れて行ってくれたことがある。車を降りると北風が髪を乱した。唇にかかった私の髪をそっと撫でて「寒いな」と言った。この流れはキスをする場面。彼の眼をじっと見つめた。すると彼は、何事もなかったかのように胸ポケットから煙草を取り出し、ライターを擦った。風に煽られ火が付かない。私は、顔を近づけて手をかざした。「煙草嫌いなんだろ」「今は好きだよ」。精一杯の愛の告白だった。彼は、無言の横顔を見せて煙を吐いた。この世で最も美しい顔だった。

 あの時、キスをしなかったことを後々までも悔やんだ。煙草の匂いのする口づけはきっと甘かったに違いない。「寒いな」と言った彼の言葉もまた優しい響きをもって記憶のなかで反芻された。何でもない一場面が狂おしいほどに胸を締めつけることを知った。

 いわゆる純愛だったのだろう。「寒い」の一言にどきどきしたり、煙草に火をつける仕草にときめいたり。恋が冷めてしまえば「寒い」は、文句にしか聞こえないのだから。寒がりの私に夫は、「寒いな」とよく声を掛ける。体調を気遣ってくれているようでちょっと嬉しい。相手の言動をどう捉えるかは、本人の気持ち次第なのだ。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
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>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
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