肯定 否定 それをつらぬく夏嵐 宮崎星輝(宮崎大地)【季語=夏嵐(夏)】


肯定 否定 それをつらぬく夏嵐
宮崎星輝(宮崎大地)

 もう二週間もおやすみをいただいてしまって、そのあいだに夏がどばどばとすすみましたね。
 やはりきてしまった、このひどい暑さ!のりこえてゆき、ま、しょう、ね………。
 わーん、でもはじまると、すすむと終わりがきてしまうもの……もうさみしい、もうもどりたい、たのしみにしていたことへ向かう道中、イベントや観劇の初日、いつでもそうです。

 季節がすすむということは、それだけ自分の生きている時間もすすんでいるということになるのだけれど、年を重ねるほうへ動いているということになるのだけれど、べつに、自分は動いてい(るつもりは)ないです。とはいえ、七月ってでも、まだはじまりたて(何の?)な感じがして好きなので、うん、がんばりたいなー、もう二十二日ですけれど☆。.:*・゜

☆。.:*・゜

 掲句は『宮崎大地全句集』より。
 
 何気ない会話、暮らしのなかでの選択、決断、かくもの、考え、思い……これまでにみずからにあつまってきた、あつめてきたちいさなこまかな、いいね/だめだねが束になって、きょうの「自分」のそれになっている。でも、いいね/だめだねの二分にできないことも、たくさんあるはずなのに、その二分で判断されたくなかったことも、できなかったことも、たくさんあるはずなのに、なあ……と感じて、しかしながら、いいねと言われても納得できないことがあるとは、ぜいたく、?か……。
 ぎらぎらというよりかは、じわーっと、じっくりと焼き尽くされていくような夏の陽射しがこちらに向けられていて、からだはすべてそのなかにある。もうずっとそこに居ると、陽射しの強さと自身のからだはじわじわと攪拌されたような感覚になって、猛暑め……と思うのだけれど、身体感覚が暑さでどろどろと攪拌されていくような一方で、肯定されたり(肯定したり)、はたまた否定されたり(否定したり)、決して攪拌されない、してくれない、くっきりとしてしまっている部分がみずからのなかにあるのだーとなる。なんたる矛盾。こころと頭とからだは連動しない。暑いし…………何処でもなく何処かへつれていってしまわれたいなー、何も思われたくないなーと無を転がしながら、申し訳程度のちっちゃな日陰をみつけて、信号を待っていたら、よろけるぐらいの風がぶわっっとはいってきて、髪や荷物にばさばさとふれていった。
 この瞬間、髪もみだれて、服の裾はひっくりかえってまぬけだけれど、風のおかげで汗はすこしひいて、しばし、なんだかさわやかだ。だめとよいが同居したまま、どうにか落ち着くこともあるもの、だめとかよいとか言われたこのみずからにも!ね☆。.:*・゜
 数多のいいよ/だめだよの声や言葉が、世界から、誰かから蓄積されても、あなたも、こちらも、あなたであることに、こちらであることに、かわらない。蓄積されたままで、むしろ、もっと、きっといいほうへゆける。蓄積されたまま、誰も通らないところまで、ときどききて、夏の熱を吹き散らしていくおおきな風のようにかろやかに、大胆に、つらぬいて。

☆。.:*・゜

 宮崎大地さんは昭和四十年代に『歯車』に所属していた俳人。
そんな宮崎さんの『歯車』や『俳句研究』等に発表された句、手書きによる自選句集『木の子』の句を収録している『宮崎大地全句集』は文庫本サイズの句集です。
 表紙には、目立つけれど、どこかやさしい黄色を背景に蝶があしらわれています。蝶が居るわけは、その句の多くに蝶が登場することからであろうと思われますが、この句集の、というか、宮崎さんの手によってかかれる蝶はたぶんぜんぶ同じ蝶で、いろいろなところにあらわれたり、ひそかに何かをみたりしている感じがします。

  人我は蝶でありえぬ疲れかな 宮崎大地

 掲句の「宮崎星輝」は宮崎さんのもうひとつの俳号で、わたしが特にこの句集でおぼえていたいなーと思えた俳句はこちらの号でかかれたものに多くありました。
 掲句や次の句を読んだとき、このときの宮崎さんにはたぶん俳句でかきたいことがあって、それをかきすぎたり、反対にかきたいことがあるとややみせてくれたりしながらも、でも、その言葉自体は俳句に登場させていないこともあって、わたしはこうしてぶあつい窓の向こうで勝手に受けとったつもりになっていて、かきたいことがあるって知らせてくれているだけで、本当に、もうよかった、もう、大丈夫という気持ちになりました。その根拠はあまりわたしのほうでもよくわかっていないのですが……。

  嘘をついて ぼくは画像かも知れない 宮崎星輝

 宮崎さんは昭和四十年代の終わりを最後に、その名前で以て俳句をかくことを、おそらくやめてしまったというから、どうしてかいていたのですか、とか、どうしていまはその名前でかかなくてもだいじょうぶになれたのですか、とかは聞けず、わからず、だいじょうぶかも、実のところは、わたしの知る由もないのですが、ほんとうにきょうのきょうまでかくのをやめているのなら、「かかなくてもだいじょうぶ」になっていてくれていることを祈るばかりです。と、いう、至極勝手な祈り……俳句を読むときは、自分勝手が暴走してしまいます。

☆。.:*・゜

 もう居ない人や、いまはもうかいていないといわれる人の句集を読むと、棚の奥の古いノートからざばざばと写真が落ちてきたみたいな不思議な心地がいたします。でも、それは、あまりに俳句と書き手を結びすぎでしょうかねえ、どうでしょうか。
 書き手なくして俳句は此処にはうまれないのだけれど、書き手の影(暗さという意味ではなく、文字通りの影)がどうしても、自分でも意図しないほど俳句に濃くなってしまって、それをみたくないから、書き手はみずからがかいた俳句からはなれたがっている、はなれておいて、はなれたところから読まれたい、そういうことも、ある、あり、ますね……!(?)
 『宮崎大地全句集』という、もう(おそらく)かいていない人の作品のために、いま、まだかきつづけている方々が心血を注いで編んだ句集(ってこちらが文字にすると、なんだかうすぺらくて、なみだでありますね……)があって、今日わたしははなれたところから読めている。

☆。.:*・゜

 さてさて、ふらふらと好きに書かせていただきましたこちらの連載も、なんとなんと次回で最終回でございます!(泣)
 初夏から炎暑へ、冷めたお風呂みたいな漂いのなかを、あともうすこしだけ、味方でいてくださいませ!(強気6)

おおにしなお


【執筆者プロフィール】
おおにしなお
平成十年、東京都生まれ。俳句をかきます。



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