
みずからも濡れていて水ぬれあえる
森久
2013年、LOTUS同人に復帰した森久は、俳号を流ひさしと改め、以前とは明らかに異なる作風を模索しはじめる。
ここで、流ひさし本人の発言を、三つ引用する。
俳句復帰を決意してからしばらくは、新興俳句作家らの影響の下に従来の作り方で俳句を書いていた。が、方法意識を欠いた句作に疑問を覚えると共に、新興俳句系統の作りは自分の路線ではないと感じ、それまで書き溜めた作品をすべて捨てた。
私見だが、「当たり前」という感覚はつねに人間の意識上にあらわれているものであり、それゆえ「当たり前」の俳句を提示しても読者は文字通り当たり前としか思わない。しかし、「当たり前すぎる」ものはまさに当たり前すぎるがゆえに、ふだんは読者の意識上からは消えている。そこへ「当たり前すぎる」俳句を持ってくることによって、それまで読者の中に「当たり前すぎる」という認識の下に失われていた或る感覚(=違和感)を喚起できるのではないかという考えに基づく。
私の考えでは、あらゆる文学は「根源」をめざすものだが、小説や短歌や自由詩は「人間存在の根源」をあらわすことに向いている形式だと思うのに対し、俳句はさらにそれを押し進めて「〈存在〉の根源」をあらわすことが可能な形式だと思われる。
『LOTUS』第33号「森久/流ひさしインタビュー」より部分引用
さて、掲句である。
みずからも濡れていて水ぬれあえる
〈水からも〉〈自らも〉とも読める掛け言葉。「濡れていて水ぬれあえる」も、ひと続きに響いているように感じられる。
何が書かれているのだろう。
考えようとしても、真っ先に「そういうものだ」という思いがやってきてしまう。
どこからも見える空気の見えぬなり
土食べてみみずは土となりにけり
滴りの落下の途中にて終る
向日葵に犬は四本足で立つ
口ひらき猫はなくなり月見草
蜂の巣や月射している三角州
つつじよりつぎつぎに蝶現れず
蟋蟀は見える虫なり石明かり
小川にも水中ありて蛇生まる
薔薇へ入りゆっくりと風出できたる
稲光見えなくなってから走る
見えている蝶は落ちないようにとぶ
鰯雲流れて血には風もなし
蟷螂の死して枯色止まりけり
木の枝に桜の花が咲きにけり
出入りすること能わざる蝶の空
森久のころの作品と比べると、ことばのありようは大きく変化している。「当たり前」へ向かおうとする意志が感じられる。
それはもちろん、選択である。
だが、創作は連続している。
森久が句作をはじめた頃のあざやかさ、あやうさ、世界のおもしろさ。そして、流ひさしがめざした「当たり前」の奥にある違和感。
その変化を経てもなお、私が選ばされたのは、〈彼の声〉がきこえてくる句であった。
*
森さん。
私の俳句を読んでほしかった。忌憚のないご意見をいただきたかった。私が遅く俳句をはじめたばかりに、あなたを知ることも、お会いすることも叶いませんでした。
私にはまだ、いろいろなことを、うまくことばにできません。
けれどあなたの俳句を読むと、あなたがやろうとしていたことが、なんとなくわかるんです。簡単なことばをつかって、なんだか変なのに、変じゃない。よくわからないのに、わかる気がするんです。
そして私も、そんな俳句を書いてみたいのかもしれません。
だからいつか、どこかでお話しできたなら、私はとても、うれしいです。
流ひさし(1950–2016)
本名・森久。東京都生。1978年『未定』創刊同人。2004年『LOTUS』創刊に参画。2007年、第8号で退会。2013年、第26号から俳号を流ひさしと改め、LOTUS同人に復帰した。
引用・参照文献
俳句同人誌『LOTUS』第8号〜第9号、第26号〜第33号
(いなば也)
【執筆者プロフィール】
いなば也(いなば・なり)
短詩、俳句
楽園俳句会会員
X:@poet_Shijyu
note:https://note.com/from40_letters
mail:inabanary@gmail.com