
露の世を行く耳朶となりにけり
松尾隆信
『星々』より。快不快に関わらず、世界と自分の輪郭や境界が曖昧になる体験は日常の中に満ちているものだと思う。我々は心を動かすとき、ごく自然に水や空気を媒介して、身体を世界の一部としたり、逆に環境を己に取り込んだりすることがある。無意識下では呼吸のひとつひとつが相当するだろうか。世界は身体の外側にあるものだと思っていても、息を吸えば空気は身体の内側へ入り、吐けばまた外へ戻っていく。その繰り返しの中で、自己と世界との境界は思っているほど明確ではない。
掲句の主体は露に満ちて潤んだ世界を静かに歩く。歩いているうちに冷たい耳朶の重さを感じはじめ、いつしかその感覚に支配されていく。耳朶という、人体の中でもとりわけ「何かをする」器官として意識されにくい部位に意識を寄せて世界を受け止める。私にはその姿が静かな抵抗に見える。何かを見たり聞いたりすることを求められ続ける日々の中で、耳朶に意識を向けることは、世界から何かを受け取るためではなく、ただ自分がここにいるという感覚を確かめるための行為にも思えるのである。
特に現代においては身体的な感覚のみならず、心理的にも世界と個人の境界線は曖昧になり続ける。SNSでは他人の喜怒哀楽をそのまま受け取ってしまうことが可能であるし、もっと大きな、社会や時代への不安も強く煽動され、「自他境界」という言葉が流行する程度には、自分自身の感覚と他人の感覚を区別することすら困難である。世界に触れられるというよりは、世界の方から絶えず触れられ続けるといった方が実態に近いかもしれない。
掲句の季語「露」の、確実に目に見えるが、ひとたび触れれば崩れて消えるように流動的な性質は、そのまま世界の不確かさに通じていると考える。そして、そのような世界を歩む人間の輪郭もまた掴み難いものなのだろう。それでも主体は、我々は、静かに進むのだと言う。下五の「なりにけり」と抑制の効いた表現は、あるがままを受け入れて、自分の身体の小さく確かな身体感覚を信じながら進んでいく覚悟を感じる。世界を生きるための抵抗は強く叫ぶことではなく、世界と自己の境界が曖昧になっていく中で、形や根拠のない感覚を言葉にするような静かな営みこそが、掲句における「行く」ということなのだと思う。
(野城知里)
【執筆者プロフィール】
野城知里(のしろ・ちさと)
2002年埼玉生。梓俳句会会員、未来短歌会会員。第12回星野立子新人賞、第70回角川俳句賞佳作。
【管理人より】ハイクノミカタ(2025.1月-2月)連載分もお見逃しなく!(全8回)
