
【第17回】
永井荷風と二世市川左團次と俳句

(昭和2年6月刊行「歌舞伎」別冊 杜若艶佐野八橋・梅ごよみ上演記念)
先月2月の歌舞伎座夜の部では、『梅ごよみ』が上演された。
原作は、江戸時代の人情本の代表作『春色梅児誉美』で、作者は為永春水。美男子の丹次郎と深川芸者の米八と仇吉、丹次郎の許嫁のお蝶との恋模様が描かれ、それを先月は中村隼人(丹次郎)、中村時蔵(米八)、中村七之助(仇吉)、中村莟玉(お蝶)が演じ、色男と美女の競演が大変華やかな舞台だった。
この『梅ごよみ』が歌舞伎座で初演されたのは昭和2年、その時の舞台監督は、小説家の永井荷風であった。
今回の「歌舞伎由縁俳句」では、小説家・永井荷風の歌舞伎との関わり、特に二世市川左團次との交友と、荷風の数ある俳句の中でも二世左團次に関連する俳句についてとりあげる。
歌舞伎、俳句との出会い
永井荷風(本名・壮吉)は明治12年(1879年)12月3日、明治政府高官で漢詩人の父・久一郎と、久一郎の漢学の師・鷲津毅堂の娘であり歌舞伎好きの母・恆の長男として誕生。荷風の作品「監獄署の裏」には、母について「江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で、琴もよく弾きました。」とあり、のちの荷風の江戸趣味に大きな影響を与えた。


(荷風の生家跡:文京区春日2-20-25)
明治24年(1891年)、高等師範学校附属学校尋常中学校第二学年に編入し、病気がちで進級が遅れながらも、この中学校でのちの俳人・井上啞々(精一)と出会い、その後啞々が亡くなる大正12年まで度々共に雑誌を創刊するなど生涯の友となった。また、病気治療のため入院した帝国大学病院で恋心を寄せた看護師「お蓮」の名から、自身の号「荷風」をつけた。荷は蓮のことで、「荷風」は唐の孟浩然の漢詩『夏日南亭懷辛大』に「荷風送香氣」とみえる語である。この頃、隅田川に船を浮かべて目前の景色と見比べながら為永春水の『春色梅児誉美』を読むこともあり、以降の荷風に影響を与えた。
明治30年(1897年)には中学校を卒業、父の上海赴任に同行し、帰国後は高等商業学校附属外国語学校清語科に入学。毎日芝居や寄席、俳句、尺八などに遊び、1898年には小説『簾の月』を書いて広津柳浪に入門。1899年には柳浪との合作のかたちで「文藝倶楽部」に『薄衣』を発表した。また同年には落語家の朝寝坊むらくに弟子入りし、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。外国語学校は欠席が多くなり、除籍となった。
明治33年(1900年)、父の家に出入りしていた大山吾童(尺八の名人荒木竹翁の門人)と知り合い、吾童と親しい俳人の蘇山人(羅臥雲)とも親しくなった。蘇山人の紹介で、俳人の巌谷小波が主催する文学サロン「木曜会」のメンバーとなり、井上啞々らとともに俳句作りに精を出すようになった。
またこの年、「文藝倶楽部」の三宅青軒の紹介で、歌舞伎座の創立者で立作者の福地桜痴の門弟となり、十月の興行では狂言作者として番付に「永井壮吉」の名前が載った。
明治34年(1901年)4月刊行の『新小説』に「楽屋十二時」を掲載。歌舞伎座の作者であった荷風が楽屋内の諸事情について執筆したため、関係者からは敬遠された。この後、福地桜痴に付いてやまと新聞に入社し、「新梅ごよみ」を連載したが、連載の中途で社内の内紛により解雇された。
同年、エミール・ゾラを英訳版で読み、フランス原文で読みたいと、フランス人修道士が教師の暁星学校の夜学にフランス語を学び、エミール・ゾラに傾倒。ゾラの影響の強い作品を次々に発表する。

(2026年現在の暁星学園。歌舞伎役者の卒業生も多数)
明治35年(1902年)、家族とともに牛込区大久保余丁町79番地に転居。この年に発表した、ゾライズムの色濃い作品『地獄の花』が森鷗外に絶賛され、出世作となった。その鷗外に荷風が初めて会ったのは、明治36年(1903年)1月に鷗外の『玉篋両浦嶼』が伊井蓉峰によって上演された市村座であった。そこで「先生はわれを顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし」(書かでもの記)と荷風は歓喜し、終生の文学上の師とした。


(余丁町の旧居跡。玄関に続く六畳間を「断腸亭」と命名し、ここから『断腸亭日乗』は始まった)
荷風は父の計らいで、明治36年(1903年)から明治38年(1905年)にアメリカ、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)はフランスに外遊、日本公使館や銀行で働いたが、自ら辞職して帰国した。その間、オペラや音楽、フランス文学に耽溺する。
この外遊中に新楽劇の副案を考えていた荷風は、帰国後に戯曲を発表し、明治43年(1910年)9月には明治座で『平維盛』が上演された。
その明治座の座元だったのが、二世市川左團次である。
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