広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅

俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第68回】 那須野ヶ原と黒田杏子


【第68回】
那須野ヶ原と黒田杏子

広渡敬雄
(「沖」「塔の会」)

那須野ヶ原は、栃木県北端の那須連山の南側に位置し、那珂川、箒川の広大な扇状地にあたり、中世は、那須一族が支配し、那須与一が知られる。明治以降開拓され(那須疎水等)西洋式の農場や牧場・遊園地となり、那須や塩原の温泉郷も名高い。芭蕉も「奥の細道」の出だしに黒羽藩の重臣に歓待され、後記の句以外に〈田一枚植ゑて立ち去る柳かな〉〈木啄も庵は破らず夏木立〉等を詠んでいる。

遠く那須連山の那須野ヶ原

まつくらな那須野ヶ原の鉦叩     黒田杏子

野を横に馬引き向けよほととぎす   松尾芭蕉

日出てて那須野ヶ原は霧の海     山口青邨

冬枯れて那須野は雲の溜るところ   渡辺水巴

また曲る那須のけむりや草摘める  阿波野青畝

箒川那須野の裾の濃あぢさゐ     沢木欣一

山百合が目覚めといふをくれにけり  細見綾子

遊園地より絶叫と青嵐        広渡敬雄

〈まつくらな〉の句は、平成元年作で、『一木一草』収録。八十八歳で逝去した父の通夜の庭で聞こえてきた鉦叩を詠んだもの。「単純化された表現の中に、圧倒的な闇と静かな生の律動が浮かび上がってくる。那須の自然は俳人杏子の原点であり、汲めども尽きない創作の泉であった」(坂本宮尾)、「土中深くから湧き上がる様に響いて来た鉦叩の音色」(髙田正子)、「那須野という地名に格別の個人的思いがあり、その言葉はどうしてこんなにも強靭なのか。言霊の働きとも言うべき」(今井聖)の鑑賞があり、〈鮎落ちて那須野ヶ原の夕火種〉〈那珂川のことしは寒き鮎のかほ〉〈白鳥の来る沼ひとつ那須野にも〉〈父母の那須野ヶ原の梅雨の月〉等もある。「私の原風景はあくまでも昭和二十年代の南那須の農山村で、田植えなど野作業も好きだった」と述懐する。

旧青木家那須別邸(一般社団法人那須塩原市観光局)

黒田杏子は、昭和十三(一九三八)年、東京・本郷生まれ、旧姓は齊藤。同十九年黒羽に戦時疎開、その後、開業医の父の生家南那須村や喜連川町で暮す。宇都宮女子高から、東京女子大に入学し、生涯の師山口青邨に出逢い、「夏草」入会、セツルメント活動を通じて、後の夫黒田勝雄と出逢う。昭和三六(一九六一)年、博報堂入社後(六十歳定年まで在職)、八年ほど俳句から遠ざかった後に、「日本列島櫻花巡礼」を発心、「寂聴ツアー南印度」にも参加。昭和五十七(一九八二)年、第一句集『木の椅子』で、現代俳句女流賞・俳人協会新人賞を受賞した。

黒羽城址公園(大田原市観光協会)

同六十年、嵯峨野寂庵の「あんず句会」をスタートし、平成二(一九九〇)年、「藍生」創刊主宰。同七年、第三句集『一木一草』で、俳人協会賞、同二十一年、桂信子賞受賞。「藍生」創刊直後から「季語の現場へ」を信条とし、「その地の地霊に会うために、「西国三十三観音霊場吟行」「四国八十八ヶ所遍路吟行」「坂東三十三ヵ所観音霊場吟行」「秩父三十四ヵ所観音霊場吟行」を企画し、満行した。

那須神社(大田原市観光協会)

「件」創刊同人となり、日経俳壇選者も務め、第五句集『日光月光』で蛇笏賞。令和二(二〇二〇)年には、現代俳句大賞も受賞し、精力的に活躍したが、同五(二〇二三)年、山梨・笛吹市の山廬での講演後に倒れ永眠。享年八十四歳。「藍生」は一代限りとし、逝去後「青麗」(髙田正子)、「あかり」(名取里美)が創刊された。句集は他に『水の扉』『花下草上』『黒田杏子句集成』『銀河山河』『八月』。

黒羽芭蕉の館(大田原市観光協会)

エッセイ集『黒田杏子歳時記』他、編著書に『証言・昭和の俳句』等があり、髙田正子による師杏子の遊行する精神、句業の全軌跡を著した好書『黒田杏子の俳句』がある。

那珂川の鮎釣り(大田原市観光協会)

「社会に対する関心と洞察が俳人としての生涯を貫き、作句が種々の社会と連携した活動と一体となっていた」(横澤放川)、「天衣無縫でありながら、たっぷりとした情感に満ち、どこかに懐かしさを秘めた杏子俳句に、人は癒され救われてゆく」(津久井紀代)、「俳句の実作者であるが、それにとどまらず、俳句の世界の外側から、俳句の世界を幅広い視点で見ていた」(渡辺誠一郎)、「厳しい実業界で、女性というハンディを乗り越えて要職をこなし、「決断の孤独」を体験し、作品で美を断定する勇気を示す覚悟の俳人であった」(対馬康子)等の鑑賞がある。

南ヶ原牧場

かよひ路のわが橋いくつ都鳥

白葱のひかりの棒をいま刻む

暗室の男のために秋刀魚焼く

摩崖佛おほむらさきを放ちけり

縄とびの子が戸隠山へひるがへる

能面のくだけて月の港かな

稲光一遍上人徒跣

ガンジスに身を沈めたる初日かな

狐火をみて命日を遊びけり

盆の月樺美智子の母のこと

寒牡丹大往生のあしたかな(山口青邨先生長逝)

花に問へ奥千本の花に問へ

一の橋二の橋ほたるふぶきけり

青年の瀧に打たれしのちのかほ

花巡る一生のわれをなつかしみ

いちじくを割るむらさきの母を割る

枯れてゆくひかり枯れきつてゆくちから 

花満ちてゆく鈴の音湧くやうに

日光月光すずしさの杖いつぽん

みちのくの花待つ銀河山河かな

花巡るいつぽんの杖ある限り

あさがほや六十年をふたり棲み

邯鄲の熄む一瞬の間なりけり

月に伏すわが身禱られ護られて

幼き頃からの文学の素養に依る優れた韻律性、一流を見抜く天与の才、博報堂時代に培った企画力と迸るエネルギーで社会にも関心深い、情感豊かな屈指の俳人であった。

脳梗塞後七年余、車椅子を押して常に寄り添い、献身的に支えた夫勝雄無くしては、杏子の偉業は語れない。

(書き下ろし)

那須茶臼岳姥ケ平の紅葉(観光商工課 観光振興係)

【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。


<バックナンバー一覧>

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【第67回】 伊賀上野と橋本鶏二
【第66回】秩父・長瀞と馬場移公子
【番外―4】 奥武蔵・山毛欅峠と石田波郷
【第65回】福岡と竹下しづの女
【第64回】富山と角川源義
【第63回】摂津と桂信子
【第62回】佐渡と岸田稚魚
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