広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅

俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第66回】 秩父・長瀞と馬場移公子


【第66回】
秩父・長瀞と馬場移公子

広渡敬雄(「沖」「塔の会」)


二子山より、皆野町、長瀞町

秩父は埼玉県の西部の雲取山、甲武信岳、両神山、大霧山、武甲山等の名峰に囲まれた秩父盆地を中心とした地域。縄文時代からの遺跡があり、わが国初の自然銅を産し、和同開珎が鋳造され、和銅に改元された(七〇八年)。

長瀞川下り

長瀞は、盆地の最北部にあり、荒川の巨岩の溪谷や岩畳で名高く、川下りの景観地。中心地・野上は、秩父往還の宿場町・市場町で、宝登山神社の頂上は蠟梅で名高い。隣の皆野は、秩父音頭の中心地で金子伊昔紅の「壺春堂医院」があり、近くの円明寺に伊昔紅・兜太の句碑がある。

金子伊昔紅と兜太の句碑(皆野町円明寺)

日本三大山車祭の秩父夜祭が名高く、秩父三十三番札所巡礼に加え、明治十七(一八八四)年の秩父事件の発端となった養蚕の集散地として「秩父銘仙」が知られている。

いなびかり生涯峡を出ず住むか    馬場移公子

瀞一丁春水岩を噛まざりけり     小杉余子

草の実をうかべて長瀞水ゑくぼ    西本一都

白菊や峡に忍びし佳き人よ      中嶋鬼谷

往診の靴の先なる栗拾ふ       金子伊昔紅

風雲の秩父の柿は皆尖る       水原秋櫻子

札所より札所つなぎて麦の秋     小島花枝

秩父路にきく雁渡し桑の上      能村登四郎

霧の村石を投うらば父母散らむ    金子兜太

こよひ秩父夜祭の榾くべにくべ    成瀬桜桃子

行春の秩父の夜の桐畑        藤田湘子

新蕎麦や一揆を語り継ぐ秩父     広渡敬雄

〈いなびかり〉の句は、昭和二十五(一九五〇)年の三十一歳の頃の作で、馬場移公子の代表句とも言われる。「まだ若い戦争未亡人が、我と我が身に言い聞かせているところが、健気で美しい」(清水哲男)、「若い生命の寂寥感、焦燥感の思いが抑えられ秘められているだけに、峡への愛執と自己への愛憐の思いが抵抗し、葛藤し、相克し、一つの呟きの形を取っている」(福永耕二)、「根底にあるのは深い嘆きだ。それを俳句として普遍化したところに移公子俳句の魅力がある」(片山由美子)との鑑賞がある。

宝登山蠟梅園

馬場移公子は、大正七(一九一八)年、埼玉県秩父郡樋口村辻(現長瀞町野上下郷)の蚕種屋の旧家に生れ、本名新井マサ子。秩父高等女学校を卒業後、二十一歳で馬場正一と結婚するも、夫が中国河北省で戦死し、僅か四年の結婚生活で実家に戻った。

昭和二十一(一九四六)年、二十七歳で金子伊昔紅(兜太の父)の句会並びに水原秋櫻子の「馬酔木」に投句を始める。俳号は伊昔紅が付けた。同二十四年、馬酔木初巻頭。二席は林翔、三席は藤田湘子だった。同二十五年には、殿村莬絲子と同時に馬酔木新人賞を得て同人となる。美貌俳人として注目を集め、能村登四郎、湘子等と競い、相馬遷子、石田波郷、福永耕二等の知遇を得た。同三十三年には三十九歳で波郷跋の第一句集『峡の音』を上梓。同三十四年度・馬酔木賞も受賞した。

壺春堂

実家の蚕種の仕事、母の看護等の負担で軽い結核となるものの、その後快癒し、秩父の自然のなかで暮らし続けた。母のみならず師伊昔紅、秋櫻子、目を掛けられた波郷、遷子、耕二等の逝去の悲しみにも屈せず、昭和六十(一九八五)年に六十六歳で第二句集『峡の雲』を上梓。翌年同句集で、第二十五回俳人協会賞を受賞した。その後も秩父での境涯を詠い続け、平成六(一九九四)年、「壺春堂医院」で七十五歳にて逝去。墓は長瀞の洞昌院にあり、〈萩咲きぬ峡は蚕飼をくりかへし〉の句碑がある。

写真提供:一般社団法人 長瀞町観光協会

「郷里の秩父盆地の産土が生んだ誇るべき女流俳人で、意志が強く、思念純粋な詩美が清潔感もろともに伝わる。戦死した夫君に生涯をかけて殉じようとしたのではないか」(金子兜太)、「移公子俳句には心づけば常に峡の音が聞こえ、秩父の峡が運命的に俳句の世界に導いたという他にない程、天性の資質が一筋に豊かに開花した」(石田波郷)、「馬場移公子的生き方とは、こころ即ち「忍ぶ」である」(黒田杏子)、「秩父での隠遁生活ではなく、俳句によって現実社会に言葉で対抗し、絶望に「食い殺され」ず、前進出来た」(角谷昌子)、「秩父の峡を出ることなく、七十五年の生涯を終えた移公子の存在は、戦後の経済成長や女性解放の潮流とは別に、自らの重い宿命を凝視した一人の女性の心象風景が確かに感じられる」(田中亜美)等の評がある。 

宝登山神社

「薄明の秩父の峡で、『忍ぶ』は『耐える』という受け身の消極的な生き方ではなく、詩魂を、命を育むように懐深く抱いて生きること、無欲無私に至ろうとして心を砕いて生きること、心を透明にして遥かなものに思いを馳せて生きること、移公子はそのことを身をもって実践した天性の俳人だった」と述べる中嶋鬼谷の論に肯かざるを得ない。

岩襞にすがれる草も月あかり

うぐひすや坂また坂に息みだれ 

いろすでに草にまぎれず実梅落つ

峡の空狭きに馴れて星まつる

一日臥し枯野の音を聴きつくす 

残りたる田畑を守りて十三夜

七夕の夫婦して牛洗ひをり

亡き兵の妻の名負ふも雁の頃

探梅めきて売山の値を踏みに入る

霜の華ひと息の詩は胸あつし

雁渡る病棟の端に住みつきて 

穭田のみどり鮮たに文化の日

足袋干して昨日はるけし鳥雲に

下りくる山の蜻蛉や盆支度

麦秋の蝶ほどにわが行方なし

柿の朱の極まれば来る波郷の忌

朝明けの蝉彼の世より鳴き起す

無患子の実を寂光土より拾ふ

師の許へ馳せゆく先を渡り鳥 金子伊昔紅先生逝く

雪嶺に夕蒼き空残しけり

梅散るやありあり遠き戦死報 亡夫三十三回忌

柿捥ぎて空の深さに憩ひをり

繭玉の一枝配るかまど神

一本の芒が強し月まつる

山繭に抜けしばかりの湿りあり

山国の山へ植ゑ足す桜かな

秩父の地に立てば、四囲の山々の嵐気に混じる太古からの人々の風土の息吹が聞こえてくる。移公子の俳句を育てた風土は、彼女自身の秘めやかではあるが強靭な詩精神と相まって余人の辿りつけない、静謐ながら確かな暮らしが息づく世界を我々に見せてくれる。

移公子の生涯を徹底的に調べ尽した中嶋鬼谷の編書『峡に忍ぶ 秩父の女流俳人、馬場移公子』に敬意を表したい。

           (青垣30号 加筆再構成)


【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。


<バックナンバー一覧>

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【第65回】福岡と竹下しづの女
【第64回】富山と角川源義
【第63回】摂津と桂信子
【第62回】佐渡と岸田稚魚
【第61回】石鎚山と石田波郷
【第60回】貴船と波多野爽波

【第59回】宇都宮と平畑静塔
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