河竹黙阿弥と尾上菊五郎
1862(文久2)年、新七は両国橋で女物の着物を着た美青年を見かけ、それを三代目歌川豊国に話すと、豊国はその光景を「豊国漫画図絵 弁天小僧菊之介」という錦絵にし、新七はそれをもとに『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)という作品を書いた。この演目の外題は、弁天小僧の出がある場のみを上演する際には『弁天娘女男白浪』に替わる。
主役の弁天小僧菊之助は、当時17歳の十三代目市村羽左衛門への当て書き。十三代目市村羽左衛門は、のちの五代目尾上菊五郎である。弁天小僧菊之助の「菊之助」は、のちの菊五郎襲名を予告したもの。これが大当たりとなり、五代目菊五郎生涯の当たり役となった。そして1902(明治35)年、五代目菊五郎の生涯最後の舞台も、弁天小僧菊之助であった。
弁天小僧菊之助の科白もまた、名科白としてよく知られている。
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が
歌に残せし盗人の
種は尽きねぇ七里ヶ浜
その白浪の夜働き
以前を言やぁ江の島で年季勤めの児ヶ淵(ちごがふち)
江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭(まきせん)を
当に小皿の一文子(いちもんこ)
百が二百と賽銭の
くすね銭せぇだんだんに
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の
枕捜しも度重なり
お手長講と札附に
とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局(つつもたせ)
こゝやかしこの寺島で
小耳に聞いた祖父(じい)さんの
似ぬ声色で小ゆすりかたり
名さえ由縁の弁天小僧
菊之助たぁ俺がことだ
なお、この科白の中の「寺島」は菊五郎の本名の姓、「祖父さん」は三代目菊五郎に掛けた“くすぐり”である。以後菊五郎や菊之助が弁天小僧を勤める時にも受け継がれ、音羽屋ゆかりの芸となっている。他家の役者が菊之助を勤める際には、「祖父さん」の箇所を「音羽屋」と言い換えている。
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