鷹羽狩行の本質をさしさわりなきところまで
――片山由美子『鷹羽狩行の百句』(ふらんす堂、2018年)
堀切克洋(「銀漢」同人)
鷹羽狩行(1930-)は「技法」の人である。
このアンソロジーの解説でも、片山由美子(1952-)が「狩行俳句の技法を探り、その魅力を解き明かすために必要な作品」を取り上げたと書いている。
では、狩行の技法とは何なのか。
この本に先行して、2017年5月には『鷹羽狩行俳句集成』が刊行されている。第17句集(!)の『十七恩』までの全句集に収められた作品(11672句)がそこには収められている【註:狩行はその後に第18句集『十八公』を出版】。まずはそれらの句に目を通し、自身の師である「狩行俳句の技法」を語ろうとしている点に、この本の独自性があると言っていい。
それは「狩」が終刊を迎え、後継誌「香雨」の主宰となる片山が、継承すべき師の句の本質を言語化しなければ、おそらく次には進めないと考えているということの証左でもあるのだろう。【註:「狩」は2018年12月終刊、「香雨」は2019年1月創刊。】
俳句における言説は、「客観写生」という語がこれだけ人口に膾炙している業界であるにもかかわらず、あのときご一緒した吟行どうだった、とか初学の頃にこうした句に衝撃を受けました、とかわりと個人的な「思い出語り」に終始することが多く、緻密な分析を行う論者というのは今も昔もそれほど多いとは言えない。そのようななか、片山は「分析」という作業に重きを置いている数少ない俳句作家のひとりである。
さて、この本における片山による貴重な指摘のひとつは、若き鷹羽狩行が山口誓子(1901-1994)から大きな影響を受けながらも、ある時期に、切字を使わずに動詞を多用する「天狼調」から、「字余りを解消し、名詞で終わる安定した叙法にする」という方向へ転換した、ということである。
ある時期というのは、1965年に刊行された『誕生』が、その10年後である1975年に新版として再刊されたときのことだ。
このとき、「定本」として再刊するにあたって、狩行は句の推敲をしているのである。これは、これまでに繰り返し言及されてきたのかもしれないが、今ではそれほど知られていない事実であろう。そして、この事実に対し、片山は次のように論評する。
(……)山口誓子は一人しか要らない。いくら巧みにその文体を真似たところで、誓子を超えることはできないのである。それに気づいたとき、狩行は独自の文体を確立することを目指したのである。
狩行という人間、その本来の感覚が求めるのは、まずバランスのよさであった。
ここでいう「バランス」とは、何よりもまず十七音という定型を墨守しながら、そこに新味を見出そうとするバランスである。片山はそこまでは言っていないが、私になりにパラフレーズすると、「前衛」という名の下で、俳句形式を破壊しようとする人々は今も昔も存在するけれど、「それって新しさじゃなくね?」ということである。かつて、高濱虚子が「新傾向」に対して批判を送り続け、みずからは「守旧派」を名乗っていたのと、同じロジックである。
では、狩行句の「新味」を具体的に見ていこう。それは、代表句の〈落椿われならば急流へ落つ〉(『誕生』1961年)に見られる句またがり、〈夜の新樹詩の行間をゆくごとし〉や〈一寸にして火のこころ〉(『十三星』1999年)のような叙情的で無駄のない比喩を用いた自然詠、あるいは〈ゆく年のゆくさきのあるごとくゆく〉(『平遠』1973年)や〈風の道すなわち雪女郎の道〉(『五行』1974年)のような音のリフレインや対句表現などである。これらはすべて「取合せではなく、季語そのものをテーマとして詠む一元俳句」である。
ここには、「ものを観察せよ」という写生のお題目は、あまり強く感じられない。実際に、片山によれば、「単なる写生に過ぎない」という言い方で、即物写生を標榜する伝統派とは、狩行は距離を置いてきたのだという。
写生ではない手法により、季語の本質を平易な言葉で、叙情的に描くこと。
それが可能なのは、句またがりやリフレインを中心とする十七音のリズムのヴァリエーションが鷹羽狩行の身体に叩き込まれており、季語の即物性を人間の「気分」へと転化していくという方針が明確だからである。だからこそ、「技法」という面が際立って見えるのだ。そのことを片山は、「定型を逸脱することなく定型を揺さぶる」と表現している。
もっとも、こうした「技法」は誓子のなかにも見出しうるものである。最も有名な例でいえば、〈炎天の遠き帆やわがこころの帆〉であろう。
この有名句もまた、句またがりの勢いあるリズムで、「炎天の遠き帆(景)」と「わがこころの帆(心)」という対句的な表現が用いられており、「帆」という音がリフレインされ、「遠き帆」の即物性が、「こころの帆」という気分へと転化されている。
山口誓子は生涯で「天狼調」と呼ばれた句以外にも、実にさまざまな句を詠んでいるが、狩行が中心的に継承していったのは、このような句風=工夫であった。
この点で、「天狼」で同時期に若手作家として活躍していた堀井春一郎(1927-1976)の文学青年的な「暗さ」もまた、鷹羽狩行という作家の「明るさ」を語る上では見逃せないように思う。また、〈もがり笛風の又三郎やあーい〉や〈たまねぎのたましひいろにむかれけり〉のような俳諧味ある句柄で、存在の根源的なさびしさを詠みつづけた上田五千石(1933-1997)のことも思い出しておく必要がある。
1954年、「天狼」の東京支部を中心に、秋元不死男が「氷海」を創刊主宰したとき、春一郎27歳、狩行24歳、五千石21歳だった。図式的に言えば、「暗くて重い」のが春一郎、「明るくて重い」のが五千石、そして「明るくて軽い」のが狩行であるように思われるが、むしろ特筆すべきは、鷹羽狩行における定型の遊戯性が、人間探求派や社会性俳句といった俳壇的流行とは一線を画していたことである。
苦悩する青年を特権的に主題化する文学への信頼や、サルトルの実存主義などを背景に社会にアンガージュマンしていく怒れる若者とは異なり、過度な政治性からも文学性からも距離を置くという方針は、むしろ当時は結社外との接触を行っていなかった「ホトトギス」に近いものであり、それゆえに「政治の季節」が終わって日本が豊かになっていく1970年代、つまり女性たちが大学の、わけても文学部にこぞって進学していく時代に、俳句の大衆化に貢献することにつながった。
狩行が会社勤めをやめ、俳句一本で生きる決意をしたのは四十七歳のときのことである。(……)俳句ブームといわれる時代で、俳句人口はどんどん増えていった。狩行が雑誌、テレビなどを通して啓蒙的活動を活発に行った時期がそれに重なっている。(……)昭和から平成という時代に、鷹羽狩行の残したものは大きい。平成の終わりを迎えたいま、それを改めて思う。
と、このように片山は同書のなかで書いているのだが、たしかに、平成の終わりにいたるまでの「半世紀」をいま、振り返るときにきているのかもしれない。つまり、振り返るべきは平成の「30年」だけではないのだ。
この点でいうと、鷹羽狩行が「狩」を創刊主宰した1978年の翌年には、ほとんど同じ年齢の稲畑汀子(1931-)が「ホトトギス」の主宰を継承していることが象徴的であるように見えてならない。平成が終わらぬうちに、主宰業から退いたこともまた狩行・汀子は、共通している。【註:稲畑汀子は「ホトトギス」主宰を2013年10月に稲畑廣太郎に譲った。】
もちろん、「狩」と「ホトトギス」の句柄は同じではない。季語に求める条件も異なる。とくに「季感」に関しては、まったく考え方が異なると言っていい。「ホトトギス」では、「季節感(季感)」は必ずしも必要とはされないからだ。
しかし、誓子が「新興俳句」をきっかけに虚子から離れた以上、師を超えるためには、誓子が捨てようとした〈「ホトトギス」的なるもの〉、もっといえば、虚子の(発句ではなく)平句的な日常詠へと、狩行が戦略的に回帰していくという面があっても不思議ではない。
狩行と虚子。そのことについて片山は、明示的に語ってはいない。
つまり、この本は「さしさわりなきところまで」で止まっている。そこから先のことは、読者の興味に委ねられている。
【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。