宝くじ熊が二階に来る確率
岡野泰輔
初夢宝くじの抽選日が昨日、十五日だったそうで。
買いましたか?当たった方いらっしゃいますか?
私は買わない派です。勤務先の取引銀行のノルマに協力して買ったことがあったけれど、「どうせ当たらないし」と後ろ向きで夢のないヤツであるに加えて、生来のものぐさで番号の照会もしなかったことがあり、以来宝くじ売り場には近寄りません。この頃ではくじの種類も発売頻度もやたらと増えたようだし、「ジャンボミニ」とか素人には意味不明なネーミングを目にするに至っては、くわばらくわばら、尾っぽを巻いて逃げ出すばかり。
そんなところにちょいと出ましたる掲句。
<宝くじ>で一旦切れてはいるが、この切断部分には等号が埋まっている。つまり、宝くじ(が当たる確率)= 熊が二階に来る確率、という等式なのだ。そして、熊がとんとんと階段を上ってあなたのいる二階に顔を出す確率はと言えば、限りなくゼロに近い。宝くじに当選することはそれくらい稀だと言っているわけだが、私が数行割いてくどくど説明するまでもなく、そんなことは一読瞭然。むしろ、分かり易すぎるという声も聞こえてきそうだ。
が、確率の低さを喩えるに<熊が二階に来る>なんていう突拍子もないシチュエーションを思いつく人がどれだけいるだろう?そして、この比喩は実に非俳句的なように私には思える(俳句的比喩とは何ぞ?と問うのはよしてください)。例えば、村上春樹や彼がお手本にしたアメリカの先行作家たちが、もうちょっと装飾を施して登場人物たちに言わせそうな気がするのだ。掲句の纏う軽妙でナンセンスなユーモアはどうもそっち系に属するように思えて仕方がないのだ。
そして、ナンセンスだろうが何だろうが、言葉になれば私たちの想像力はたちどころにその状況を脳内スクリーンに投影する、即ち、二階に来る熊を。さて、どんな熊を想像しますか?
私は二足歩行で人間の言葉を話すようなのほほんとした熊さんを思い浮かべるが、人に追っては村落を襲撃に来た羆を直感するかもしれない。そこは読みの自由だろう。宝くじを命がけで買うようで、それはそれで面白い。
ところで、この句の季語は何だろう。「富札」或いは「箕面の富」なる季語を現代の「(年末)宝くじ」に言い換えた可能性もなくはなさそうだが、やはり「熊」と考えるのが妥当か。となると、比喩としての存在は季語の役を果たさない、と物言いがつきそうだ。私は尾っぽを巻いて熊さんの背中に隠れまして、今週はここまで、と。
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】