【新連載】
もしあの俳人が歌人だったら
Session#1
このコーナーは、気鋭の歌人のみなさまに、あの有名な俳句の作者がもし「歌人」だったら、どう詠んでいたかを想像(妄想)していただく企画です。あの名句を歌人のみなさんはどう読み解くのか? 俳句の「読み」の新たなる地平をご堪能ください! 今月の回答者は、鈴木美紀子さん(「未来」)・服部崇さん(「心の花」)・鈴木晴香さん(「塔」)の御三方です。
【2021年4月のお題】
さきみちてさくらあをざめゐたるかな
野澤節子
【作者について】
野澤節子(1920-1995)は、横浜生まれの俳人。1950年代に角川『俳句』編集長をつとめた叙情派俳人・大野林火(1904-1982)が1946年に「濱」を立ち上げると、すぐに投句をはじめた林火っ子。句には、学生時代からの闘病(脊椎カリエス)で培われた「いのちのうた」という趣あり。掲句が詠まれる直前、「蘭」を創刊した1971年には、第4句集『鳳蝶』により読売文学賞を受賞している。
【ミニ解説】
季語は「さくら」(春)。歌人の方は驚かれるかもしれませんが、「桜」と「花」は大方の歳時記において別のものとして扱われています。「花」といえば、平安時代以降は桜のことを指すのが一般的で、〈久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則〉が有名ですね。一方、「桜」といえばソメイヨシノが有名で、これは幕末に江戸染井でつくられて明治以降に広まった品種。もちろん、大和の「吉野山」にあやかった名称ですが、あちらはヤマザクラです。当然、平安以降の「花」もヤマザクラでした。
というわけで、この句の桜は一斉に華々しく咲くソメイヨシノ。だからこその「さきみちて」というわけです。その満開の桜は何色でしょうか。白でしょうか。ピンクでしょうか。この作者は「青ざめている」と少しだけ読者の期待を裏切っています。時間帯はいつでしょう。朝でしょうか。昼でしょうか。夕方でしょうか。ここにはいろいろな可能性がありますが、ひとつの解釈としてはまだ涼しい朝。爛漫と咲いているのに、どこか冷たくて、さみしげで、儚げ。そこには野澤節子らしい「いのち」に対する感受性が見えるかもしれません。
俳句では、高濱虚子の〈咲き満ちてこぼるる花もなかりけり〉が有名です。節子は当然この句を知っていたはずです。この「花」もヤマザクラというよりはソメイヨシノと読んだほうがしっくりきますね。この句のポイントは、「花は散るもの」というイメージに対する裏切り。天気がよくて風もなくて散る花びらもない。商売繁盛・諸行無常の響きばかりの忙しい社会のなかで、どこか時が止まってしまったかのような感じです。節子は、この虚子の句をどう思っていたのでしょうか。
節子の句が作られたのは1973年、結社誌「蘭」を創刊してまもないころの一句です。ひらがなのみの表記は、読み手の理解を少しだけ遅らせつつ、読者をこの句の「うた」性に誘っているようにも見えます。前半で2回反復される「さ」の音、後半で2回反復される母音。満開の桜は、「こぼるる花もなかりけり」という堂々とした現実とは逆に、ゆるやかな春の水の流れのように、あるいは淡い水彩画のように、現実感を失っていくところが魅力です。
しかしこのとき節子には何があったのでしょう? 歌人のみなさんはどんな状況や心情を連想されますか?
【回答者1:鈴木美紀子さんの場合】
バレエの「白鳥の湖」。オデットの清純さに惹かれたはずのジークフリート王子は、悪魔ロットバルトの娘オディールの妖艶な魅力に抗うことはできませんでした。来世で王子はオデットと結ばれますが(諸説あります)、官能的なオディールの面影を密かに追い求め、狂おしく胸をざわつかせていたのかも……。
さて、桜の話。真昼の桜と夜の桜は別人のようです。白昼の桜は舞台装置の虚構めいた華やかさですが、夜の桜はどうでしょう。見る者の心をなまめかしく捕らえ、妖しく泡立たせます。脈打つようにゆれる花びらは月の魔力を得て、いのちが発光しているようです。けれど、空にうっすらと朝の光が兆すと、桜は薄くれないの瞼を閉じ、闇の抱擁をほどきながらその素顔を儚く透きとおらせるのです。
それにしても、来世で王子は気付いたのでしょうか。愛に〈咲き満ちて〉人間の姿に戻ったオデットよりも、恋に怯えていた白鳥オデットの〈蒼ざめた〉羽根の方がどんなに美しかったのかを。
【回答者2:服部崇さんの場合】
最近、短歌らしくない短歌って何だろうとたまに考える。短歌には短歌らしい短歌、短歌らしくない短歌があると考えてみるのだが、同じように、俳句には俳句らしい俳句、俳句らしくない俳句があると思う。掲出句では、満開の桜の花が明るいピンク色ではなくうす暗い青色を見せている。天気が曇りで桜の花も青みがかって見えているのかもしれない。
しかしながら、それと同時に、作者の心情が晴れやかでない様子が詠み込まれているようにも感じられる。ここには、景に心情を託すという伝統的に短歌が得意としてきた技法が用いられているのではないだろうか。その意味で、この一句は俳句らしい俳句というよりも「短歌らしい俳句」と言ってもよいのではないか。
ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの交雑による単一の樹が広まったものらしい。何かと何かが交雑して新しい種ができることにはわくわくさせられる。短歌と俳句との新たな交雑から何が生まれてくるだろうか。
【回答者3:鈴木晴香さんの場合】
いつも乗る電車が、聞き覚えのない駅に着いた。いったいどうしたんだろう。新しい駅ができたのかな。そうか、いつのまに工事をしてたのか。そう思いながらしばらく窓の向こうを眺めていると、次も見たことのない駅だ。何かおかしい。何がおかしいんだろう。そうか反対方向に乗っているんじゃないか。なんでそんなことに気づかないんだよ。
ひとは、自分が間違っているということを信じたくなくて、世界の方を修正してしまう。「新しい駅ができたのかな。」そんなはずはない。なのに、私の知らないうちに私がそう思い込んでしまう。あおざめるには、時間がかかる。
手のひらを太陽にかざして、真っ赤に見えるのは私の血潮ではない。ひかりの色が吸収されて、赤だけを通しているのだ。はなびらに血は流れていない。幹の内側の細胞はもう死んでいる。こんなにも咲き満ちた日に、桜はそのことにやっと気がついた。もう何度、咲いてきたことだろう。あおざめるには、時間がかかる。
【今月の回答者】
◆鈴木美紀子(すずき・みきこ)
1963年生まれ。東京出身。短歌結社「未来」所属。同人誌「まろにゑ」、別人誌「扉のない鍵」に参加。2017年に第1歌集『風のアンダースタディ』(書肆侃侃房)を刊行。
Twitter:@smiki19631
◆服部崇(はっとり・たかし)
「心の花」所属。居場所が定まらず、あちこちをふらふらしている。パリに住んでいたときには「パリ短歌クラブ」を発足させた。その後、東京、京都と居を移しつつも、2020年まで「パリ短歌」の編集を続けた。歌集『ドードー鳥の骨――巴里歌篇』(2017、ながらみ書房)。
Twitter:@TakashiHattori0
◆鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京生まれ。慶應義塾大学文学部英米文学専攻卒業。塔短歌会所属。雑誌「ダ・ヴィンチ」の連載「短歌ください」への投稿をきっかけに短歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)。Readin’ Writin’ BOOKSTOREにて短歌教室を毎月開催。この夏、第2歌集を出版予定。
Twitter:@UsagiHaru
【来月の回答者は野原亜莉子さん、上澄眠さん、三潴忠典さんです】
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】