
開けて閉めて鱈の子どもの声がする
赤野四羽
(『夜蟻』「その日はいい日」)
生活のなかで現れるとびら。何度も口ずさむうちに開かれる、伸びあがる、閉められる、ちぢむ。開けて閉めて、自発的行為は世界の現実さをたしかめる。
このとき、主体と対象は明かされる必要がない。鰓の可能性を写し取ることができるか。のびちぢみする生身は解釈を求めず、ただそこに在る。のびちぢみするとき冬の海が銀や黒に写し取られた模様で、鱈がぼんやりと居座る。
口と腹が重そうに垂れ、寓意として無数の子どもたちが排出される。
あるいは、鱈の腹に刃物を入れて、内蔵とともに溢れ出す測定され得ない子どもたち。
テレビで見た産卵のシーンは永遠に発光し、ざらざらと音がする。
見られる/見る、食べられる/食べる。この句のなかで形式は共犯。「開けて閉めて」五音は破られ、三と三で拡散し、六として浸潤。「鱈の子どもの」七音で、疑いをもたれることはない。「声がする」五音へと収束。しかし、「開けて閉めて」の「て」は軽く契機としてあり、終わることのない回転へと誘う。葛藤の後ゆるしあうとき鱈の記録へと溶けて混ざっていく。
声がする。
(雨霧あめ)
【執筆者プロフィール】
雨霧あめ(あまぎり・あめ)
2002年生まれ。滋賀県出身。会社員。
よろしくお願いします。
【2025月11月のハイクノミカタ】