黛執は、昭和五(一九三〇)年、神奈川県湯河原町生れ、小田原商業在学中に、学徒動員された後、明治大学専門部入学、卒業後就職するもほどなく、帰郷し家業(質屋)を継ぐ。同人誌「西湘文学」を興し、五所平之助に俳句指導を受け、その勧めで「春燈」に入会し、安住敦に師事。幕山梅林の奥地のリゾート開発に反対し「湯河原の自然を守る会」結成し中止させた。昭和五十三(一九七八)年、兄事する永作火童の勧めで応募した「角川俳句賞」で次席となり、その後五年連続次席となり飯田龍太に評価される。
同五十六年、第一句集『春野』刊行。第二句集『村道』上梓後、師安住敦が逝去し、平成五(一九九三)年、「春野」の創刊主宰となり、「平明に求められるものは、普遍性の極致としての完璧さである、又まず上手くならなくてはならない」と唱えた。同十五年第四句集『野面積』で俳人協会賞受賞し、第六句集『煤柱』は蛇笏賞最終候補となった。
同二十七年、西さがみ文芸展覧会にて「湯河原が生んだ俳人父娘黛執・黛まどか展」開催後、「春野」主宰を奥野春江に譲り、令和二(二〇二〇)年逝去。享年八十五歳、墓は福泉寺。又、句碑〈梅ひらく一枝を水にさしのべて〉が幕山梅林公園にある。句集は他に『朴ひらくころ』、『畦の木』『春の村』『春がきて』『黛執全句集』がある。
「キッパリと断定のよろしさと愉しさ、季語が作品の重心をなし、素材の新古に顧慮しない等、生得俳句に適った代表的な俳人」(飯田龍太)、「風土性と寡黙性―必要最小限のことを表現し、あとは読者を信じて黙っているー」(今瀬剛一)、「近代化と共に失われていく人と自然の共存・共生の良さ温かさが、その俳句には残存している。求道的に自らの俳句観に忠実で、美意識をもって自然を映す」(坂口昌弘)、「作品は平明だが,平板でも単純でもない。対象を柔らかく鮮明に描いて余韻を残す。自然と人間をいつくしむ力を生涯貫いた」(井上弘美)、「生涯、湯河原の地で郷土の自然に目を据えて句作を続けた姿勢には、俳人としての使命感があった」(角谷昌子)等の評がある。
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