求婚の返事来る日をヨット馳す
池田幸利
(『吾亦紅』)
まだ恋も分からない頃の夏休みのある日、年の離れた従姉妹と昼間からテレビドラマを見ていた。大学のヨット部の青年が資産家の令嬢と恋をする話であった。令嬢には婚約者がいる上に価値観も違うのだが、夕陽に染まる海で青年が愛の告白をしたシーンが印象に残っている。ドラマのタイトルも結末も覚えていないが、とても切ない気持ちになったことを記憶している。
平安時代、身分の高い女性は、男性から求婚された場合、一旦断るのが作法であった。求婚もその後の駆け引きも和歌のやり取りにて行われる。和歌という文通にて相手を気に入った場合は、条件を提示する。条件は、相手の愛情の度合いを図るもので、観念的な内容が多い。「あなたの恋の炎が天を焼き尽くすほどであるならば」とか、「私を恋う涙が川となるほどであるなら」とか。『竹取物語』のかぐや姫が求婚者の五人の貴公子に出した条件は、「仏の御石の鉢」「蓬莱の玉の枝」「火鼠の裘」「龍の首の珠」「燕の産んだ子安貝」といった手に入らない物の要求であった。それは、貴公子達を気遣った婉曲的な拒否だったのである。
求婚を一旦保留にする風習は、昭和の頃にはまだ残っていたように思う。求婚された場合は即答せず「考えさせて」と言う。それは、自身の価値を上げるためとか、相手の愛情を図ろうとするためとか、相手を焦らせて恋の炎を熱くさせようとするためとか…。男性側の解釈としては、恋の駆け引きの延長上にある心理作戦と考えられていた。だが、昭和の女性にとって結婚は人生のゴールなので慎重になるのは当然のことであった。当時も今も「釣った魚に餌をやらない」男性は多いのだから。
私の年の離れた従姉妹は、高校時代の同級生から仲介者を通して求婚があった。相手の男性とは、挨拶する程度の関係で会話らしい会話をしたこともなかったという。仲介者は回答期限を1ヶ月後と定めたが、その間に本人から何の連絡も来なかった。従姉妹の土地では、それも礼儀だったらしいが。相手が豪農の家の長男であったことと、寡黙だが礼儀正しい男性であることが一族の間で好印象となり、回答期限の日に承諾することとなった。実は、回答期限の日に返答するのも作法だったのである。
夫の求婚に即諾した私からしてみると、面倒なやり取りではあるが、少しぐらい焦らしてみても良かったのかもしれない。夫が言うには、「未来図」に入会することという条件というか命令があったとのことだが…。そうだったかな。
求婚の返事来る日をヨット馳す 池田幸利
ドラマのワンシーンのように、ちょっと格好良いこの句。ヨットは、女性と同じで操縦が難しいらしい。求婚の返事を待つ男性が逸る心を紛らわすためか、それともレースの日なのか、ヨットを操縦している。お相手は、やはり高嶺の花なのだろう。求婚とヨットレースに挑む青年の不安と期待に高鳴る胸を風が煽る。ヨットを揺らす風は、自分を苦しめ続けるものであると同時に希望でもあるのだ。ヨットに乗る男にとって風は、運命の歯車でもある。夏の青空の下、真っ青な海を切り開いてゆくヨット。目指すのは入道雲の出ている沖の彼方であろうか。求婚した女性との未知なる航海を夢見て、男はひたすらヨットを走らせている。恋のレースの結果はどうだったのだろう。きっと「YES」だったに違いない。
(篠崎央子)
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
【篠崎央子のバックナンバー】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】