
問ひ詰められてパンジーが溢れさう
佐々木紺
(佐々木紺『平面と立体』(2024年))
佐々木紺の俳句には、しばしば暴力の気配が潜んでいる。声を荒げるわけでも、ただの暴力を描くわけでもない。むしろその反対に、何かが言葉になる直前の、あるいは言葉にされぬまま押しとどめられている力として、暴力は句の内部に滲み出る。
掲句もまた、そのような一句である。「問ひ詰められて」という言葉は、すでに事態の切迫を含んでいる。作中主体は誰かに厳しく問いただされ、言葉の逃げ場を失っている。誰が誰を、なぜ問い詰めているのかは語られない。説明が削ぎ落とされているぶん、詰問という行為そのものの圧力だけが、むき出しのまま提示される。
その瞬間、視界に現れるのが花壇のパンジーである。「溢れさう」という措辞が示すのは、春の花の量感であると同時に、主体の内部にたまった感情や言葉の臨界でもあるだろう。詰問の圧迫と花の群れとが重なり、心理はやがて視覚の像として立ち上がる。可憐な春の花が、かえって逃れがたい充満として感じられてくる。
またパンジーの花は、どこか人の顔を思わせる形をしている。花壇いっぱいに咲く花が、無数の視線のように迫ってくるとも読めるだろう。可憐な春の花でありながら、この句ではむしろ圧迫の象徴として働いている。「パンジー」という語に含まれる破裂音と濁音の響きも、句の緊張とよく響き合っている。
この句において暴力は、出来事ではなく強度として現れている。誰かを打つ手ではなく、言葉に追い詰める圧力としての暴力である。そしてその圧力は、春の花の像へと静かに転化される。
句集『平面と立体』を通読すると、このような暴力の表現は決して偶然ではないことがわかる。たとえば〈刃を入れてスイートピーの泳ぎだす〉や〈落ちながら謀反のにほふ白椿〉には、「刃」「謀反」など名詞としての暴力の匂いがある。また〈師をすこしあやめて持つてゆく芒〉や〈遠き夜の父を弒する窓の雪〉では、動詞の選択が句に不穏な力を与えている。
同時に作者は、身体感覚を通して世界が揺らぐ瞬間を繰り返し描いている。〈三色菫まばたきにまはりだす〉などはその典型である。身体の感覚が変調するとき、世界の像もまた揺らぎ始める。そこに生じる歪みが、句の内部に独特の緊張を生み出している。
句集『平面と立体』の冒頭には〈忘れゆくはやさで淡雪が乾く〉が置かれ、末尾には〈書けば遺るこの瞳孔をねぢあやめ〉が据えられている。あとがきで作者は、「本当は全部、すみずみまで鮮やかに覚えていたいし、何も残らなくなるまで忘れてしまいたい」と記している。覚えることと忘れること、書くことと遺ること。そのあわいに潜む力を、作者は俳句という短い形式の中で静かに引き受けている。
掲句に満ちる緊張もまた、その力のひとつの表れなのだろう。
(星野いのり)
【執筆者プロフィール】
星野いのり(ほしの・いのり)
1997年生まれ。俳句結社「炎環」同人。俳句雑誌『noi』誌友。現代俳句協会所属。第14回鬼貫青春俳句大賞。第2回全国俳誌協会新人賞。第4回俳句四季新人奨励賞。第6回円錐新鋭作品賞。