何これは痩せても枯れても式部の実 川崎展宏【季語=式部の実(秋)】

何これは痩せても枯れても式部の実

川崎展宏

「何これは」と問う(というより問われている?)ぐらいだから、一見して紫式部の実と分からないほどに痩せ、枯れていたのだろう。そうであっても、「わたし」はこの実を愛している、という気持ちが伝わってくるような一句だと思う。

 理屈の上では、この句の季語は他の植物でも成立しうる。「青木の実」でも「花芙蓉」でも良いかもしれない。試していけばもっと良い季語が見つかるかもしれない。だとすれば、もし句会でわれわれがこういう句を出したとして、仲間から「季語が動くのでは」と問われたとしたら、なんと答えるべきだろうか。

「式部の実」の実態や本意にせまり、イメージを膨らませることで、季語以外の措辞との響き合いについて述べる、というのがひとつありうる方針だろう。それももちろん良いのだが、僕としては、「痩せても枯れても」という表現に、この植物への愛着が確かに感じられるからこそ、それが「式部の実」でなければならない必然性が「わたし」の側に生まれているのだ、という意見を出してみたい。

 これは「この季語を愛している/この季語に愛着がある」ことによって、その「季語の動かなさ」が保証される、ということを言いたい……わけではない。それを言い出したら、あらゆる俳句にこういう論法が適用できてしまうからだ。大事なのはあくまで、その愛着を示す表現が一句の中にきちんとなされているかどうかである。「痩せても枯れても」という表現があることによって初めて、「この季語に愛着がある」という解釈ができるようになり、その上でやっとこの句における「季語の動かなさ」を説明する準備が整うのだと思う。

 掲句は『春 川崎展宏全句集』(ふらんす堂)から引いた。川崎展宏が生前最後に出した句集『冬』(ふらんす堂)よりさらに後、二〇〇六年に発表された連作のうちの一句である。句のならびを見ると初冬の場面が想定されているようだが、索引では秋の句としてまとめられていたので今回とりあげることにした。

 実は『冬』よりさらに遡って、一九九七年刊行の第五句集『秋』(角川書店)に、掲句と似た句が収録されている。

これは何これは磯菊しづかな海

 おそらくこちらの方がよく知られているのではないだろうか。実際、僕としても正直この句の方が良いと思う。「しづかな海」という下五への展開が本当にあざやかだ。「これは何」という問いかけに対して、「これは磯菊」はありうるが「しづかな海」はありそうにない。しかしそのありえなさ・意外さが、この句の大らかで静謐な詩的飛躍を生みだしている。良さを言語化しようと思ったら、こちらの句の方がたくさんできる気さえする。

 しかし、このような切れ味抜群の句と同時に、「式部の実」のような変な句(そもそもこの中八はアリなのだろうか)も僕には捨てがたい。というか好きなのだ。なぜなのだろうか。僕はここに、自身が今後も俳句をつくったり読んだりしていく上での秘密が隠されているような気がするのである。

 自身のためのヒントとして、画家の山口晃の文章をここに引いておきたい。雪舟の有名な『慧可断臂図』について述べている箇所より。禅画の世界で良しとされる「一筆描き」に対し、山口はこの絵の好ましさを「途中で一息」ついている筆致に見出している。

この絵における達磨の身体の輪郭線はすっと描いてあるようでありながら、よく見ると背中の所で筆が一旦止まっている事が分かります。赤瀬川源平(あかせがわげんぺい)さんも、この止まっている所がいいと(おっしゃ)っています。

山口晃『ヘンな日本美術史』(2012年、祥伝社、105頁)

 要するに「一筆描き」のような技巧を「磯菊」の句、「途中で一息」のような技巧からの解放を「式部の実」の句に対応させてみたいのだが、事態はもう少し複雑かもしれない。というのも、禅画における「一筆描き」こそ鑑賞者に技巧を意識させないために極められた修練の成果であろうし、「式部の実」の句の中八もあえて(意志を持って)採用しているのだとしたら、それもまたひとつの技巧と言えなくもないからである。

 もし「式部の実」の句の「途中で一息」感が本当に技巧によって生まれたものであったとしても、この句に対する僕の愛着は変わらないだろう。そうだとすると、結局自分が持っている(と信じている)、「技巧からの解放」に対する嗜好とは一体なんなのだろうか。この感覚をいつか正面から言語化してみたいなあと思う。

田中木江


【執筆者プロフィール】
田中木江(たなか・きのえ)
1988年: 静岡県浜松市生まれ
2019年: 作句開始
2023年: 「麒麟」入会 西村麒麟氏に師事
2024年: 第1回鱗kokera賞 西村麒麟賞 受賞
2025年: 第8回俳句四季新人奨励賞 受賞



【2025年10月のハイクノミカタ】
〔10月1日〕教科書の死角に小鳥来てをりぬ 嵯峨根鈴子
〔10月2日〕おやすみ
〔10月3日〕破蓮泥の匂ひの生き生きと 奥村里
〔10月4日〕大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼 岡井省二
〔10月5日〕蓬から我が白痴出て遊びけり 平田修
〔10月6日〕おやすみ
〔10月7日〕天国が見たくて変える椅子の向き 加藤久子
〔10月8日〕

【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
〔9月11日〕手をあげて此世の友は来りけり 三橋敏雄
〔9月12日〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
〔9月13日〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
〔9月14日〕星が生まれる魚が生まれるはやさかな 大石雄介
〔9月15日〕おやすみ
〔9月16日〕星のかわりに巡ってくれる 暮田真名
〔9月17日〕落栗やなにかと言へばすぐ谺 芝不器男
〔9月18日〕枝豆歯のない口で人の好いやつ 渥美清
〔9月19日〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
〔9月20日〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
〔9月21日〕五体ほど良く流れさくら見えて来た 平田修
〔9月22日〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼
〔9月23日〕真夜中は幼稚園へとつづく紐 橋爪志保
〔9月24日〕秋の日が終る抽斗をしめるやうに 有馬朗人
〔9月25日〕巻貝死すあまたの夢を巻きのこし 三橋鷹女
〔9月26日〕ひさびさの雨に上向き草の花 荒井桂子
〔9月27日〕紙相撲かたんと釣瓶落しかな 金子敦
〔9月28日〕おやすみ
〔9月29日〕恋ふる夜は瞳のごとく月ぬれて 成瀬正とし
〔9月30日〕何処から来たの何処へ行くのと尋ね合う 佐藤みさ子

【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)

関連記事