達筆の年賀の友の場所知らず
渥美清
渥美清といえば、映画「男はつらいよ」で車寅次郎を演じ、国民的人気を博した名優である。
映画の中で、寅さんこと車寅次郎が、片恋破れの相手に手紙を認めるお決まりのシーンがあるのだが、その筆致は慇懃でありながらも、啖呵売の口吻を彷彿とさせる洒脱さも兼ね備えている。掲出の一句からは、どこかそのシーンを思い起こしたくなるのだ。「友」というのは作者の含羞まじりの韜晦の表れであって、イメージの源流には寅さんがあるように思えてならない。下五の「場所知らず」からは、フーテンの寅さんの容貌を感じ取りたくもなるというものだ。
ところで、「男はつらいよ」の第一作目が公開されたのは、高度経済成長も極まった1969年のことである。この時期は、経済成長の裏側で爬行していた大気汚染や水質汚濁、自然破壊が看過できないまでに表面化してきた時期でもある。いきおい、従来の歳時記的な世界観も破壊され、縮小を余儀なくされた。
唐突なようではあるが、高度経済成長で失われつつあった歳時記的な世界観を補完するための精霊こそが寅さんであった、と捉えてみたい。
映画の中で柴又の人々は、祭のような賑わいで寅さんの帰郷を歓迎するわけであるが、その中にはどことなくきまりの悪い表情でもって迎えている人の姿も見え隠れしている。これは、柴又の人々が、大きな喜びの中に、これから起ころうとする騒動の兆しを予感していることによるものであろう。
この柴又の人々の寅さんに対する構えこそが、われわれの季節あるいは自然に対する構えの隠喩となっているのではないだろうか。季節をもてなしながらも、その根においては陰影深い畏れをもつ。ときには天災をも齎す自然に対して、手放しでは歓迎できないのだ。
シリーズに一貫して津々浦々の日本の風景が映し出されるのは、自然破壊によって毀された地霊を呼び覚ます為とも、それを鎮める為とも思えてくる。
また、映画の公開時期が、盆と年末年始の年2回を基本としていることからは、歳時記的な世界観に対する接近が見てとれる。映画じたいが一種の季語としての役割を帯電しようとしているかのようだ。
とするならば、冒頭で紹介した失恋の手紙は、さしずめ一篇の詩といってよかろう。全国を渡り歩く寅さんの彼方から届けられることばに、季節は移ろい、騒動ははかなくも落着するのである。
その寅さんを、実生活と分かちがたいほどに長年演じ続けた渥美清が、俳句を一つの慰めとしたことは、そう想像にかたくない。
最後に、寅さんらしさのあふれる渥美清の句をもう一句挙げておきたい。
万歳の去りて夕焼け遠くまで
(木内縉太)
【執筆者プロフィール】
木内縉太(きのうち・しんた)
1994年徳島生。第8回澤特別作品賞準賞受賞、第22回澤新人賞受賞、第6回俳人協会新鋭俳句賞準賞。澤俳句会同人、リブラ同人、俳人協会会員。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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