章魚濁るむかしむかしの傷のいろ
瀬間陽子
その作者からしか立ち現れない、固有の世界をもった俳句がある。
そうした固有の世界は、いわゆる俳句コミュニティに流通している「季語が動かない」とか「取り合わせの妙が」といった評価の規格の外側に存在している。
また一句だけでは見えづらくても、句集のかたちを取ると立体的な世界が眼前にあらわれてきたりもする。無明の宇宙に浮かぶ孤独な星々が夜空になり、星座として網膜にとどくように。
章魚濁るむかしむかしの傷のいろ 瀬間陽子(以下同)
瀬間陽子句集『新潮文庫の栞紐』所収の一句である。
章魚が濁るってどういうことだろう。茹でられて透明感が失われてしまったということか。いや、そもそも生ダコだって白濁しているし、生きているタコも透明というわけではない。おそらくこの濁りは、作中主体の屈託を反映させたものではあるまいか。続く措辞がそんなふうに思わせる。しかしそれとともに、実景としての章魚の姿も浮かんでくる。
陰翳豊かな海中の賢者が、細かな傷をその膚に纏わせつつ、水底をたゆたっている。もう顧みることもない傷の色に、少しずつ濁りながら。
傷は過去のものだけれど、決して忘れ去られたわけではない。お伽話のような「むかしむかし」に対して、同じひらがな表記の「いろ」は妙に生々しいのだ。
そんな生々しさが、ときに官能性を伴って、集中にたびたびあらわれてくる。
新潮文庫の愛はげしくて三日かな
性慾のごとく梯梧のふかく咲く
どこも燃えないからだがあって桜かな
卯の花腐し手塚治虫の濡れ場かな
金継ぎの少しふしだら夏の雲
でもその官能性は、直截的な表現であるにも関わらず、エロスと呼ぶにはあまりにさみしげである。むしろ、とてつもない喪失、あるいは寂寥が先にあって、それを埋めるような性愛なのかもしれない。自らの傷を忘れるために愛し、そのせいでかえって傷を増やしてしまうような。
……少し頭を冷やそう。作品をあまりに私小説的に消費してしまうのは、下世話な覗き見趣味に堕してしまいかねない。まして作者と作中主体を混同してしまうことは厳に慎まねば。
そんなふうに冷静さを取り戻させてくれる、カタルシスの滲んだ句も散りばめられている。
死んでゆく鯨は朝の匂いせり
嚙む音のうるさくて田螺は未来
滴りのさざなみコクヨノートまで
カラヤンのように焚火を了らせる
句材と表現の豊饒さにページを繰るたびに驚かされ、いつしか重奏的な絵巻のなかに迷い込んだかのような感覚に捉われる。そしてその絵巻には、深い喪失のその先に、ほんのり穏やかな救いと、ある種の確信が仄めかされているのである。
章魚の膚に塗り重ねられた傷から、賢者の眼差しが生み出されてゆくように。
(楠本奇蹄)
【執筆者プロフィール】
楠本 奇蹄(くすもと きてい)
豆の木など参加。第11回百年俳句賞最優秀賞、第41回兜太現代俳句新人賞。句集『おしやべり』(マルコボ.コム,2022)、『グッドタイム』(現代俳句協会,2025)。
Twitter:@Kitei_Kusumoto
bluesky:@kitei-kusu.bsky.social
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https://100hyakunen.thebase.in/items/109144894
【2025年7月のハイクノミカタ】
〔7月1日〕どこまでもこの世なりけり舟遊び 川崎雅子
〔7月2日〕全員サングラス全員初対面 西生ゆかり
【2025年6月のハイクノミカタ】
〔6月3日〕汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ 楠本奇蹄
〔6月4日〕香水の中よりとどめさす言葉 檜紀代
〔6月5日〕蛇は全長以外なにももたない 中内火星
〔6月6日〕白衣より夕顔の花なほ白し 小松月尚
〔6月7日〕かきつばた日本語は舌なまけゐる 角谷昌子
〔6月8日〕螢火へ言わんとしたら湿って何も出なかった 平田修
〔6月9日〕水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史
〔6月10日〕銀紙をめくる長女の夏野がある 楠本奇蹄
〔6月11日〕触れあって無傷でいたいさくらんぼ 田邊香代子
〔6月12日〕檸檬温室夜も輝いて地中海 青木ともじ
〔6月13日〕滅却をする心頭のあり涼し 後藤比奈夫
〔6月14日〕夏の暮タイムマシンのあれば乗る 南十二国
〔6月15日〕あじさいの水の頭を出し闇になる私 平田修
〔6月16日〕水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
〔6月17日〕混ぜて扇いで酢飯かがやく夏はじめ 越智友亮
〔6月18日〕動くたび干梅匂う夜の家 鈴木六林男
〔6月19日〕ゆがんでゆく母語 手にとるものを、花を、だっけ おおにしなお
〔6月20日〕暑き日のたゞ五分間十分間 高野素十
〔6月21日〕菖蒲園こんな地図でも辿り着き 西村麒麟
〔6月22日〕葉の中に混ぜてもらって点ってる 平田修
〔6月24日〕レッツカラオケ句会
〔6月25日〕ソーダ水いつでも恥ずかしいブルー 池田澄子
〔6月26日〕肉として何度も夏至を繰り返す 上野葉月
〔6月27日〕夏めくや海へ向く窓うち開き 成瀬正俊
〔6月28日〕夏蝶や覆ひ被さる木々を抜け 潮見悠
〔6月29日〕夕日へとふいとかけ出す青虫でいたり 平田修
〔6月30日〕おやすみ
【2025年5月のハイクノミカタ】
〔5月1日〕天国は歴史ある国しやぼんだま 島田道峻
〔5月2日〕生きてゐて互いに笑ふ涼しさよ 橋爪巨籟
〔5月3日〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
〔5月4日〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
〔5月5日〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
〔5月6日〕薄つぺらい虹だ子供をさらふには 土井探花
〔5月7日〕日本の苺ショートを恋しかる 長嶋有
〔5月8日〕おやすみ
〔5月9日〕みじかくて耳にはさみて洗ひ髪 下田實花
〔5月10日〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
〔5月11日〕逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる 平田修
〔5月12日〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
〔5月13日〕姥捨つるたびに螢の指得るも 田中目八
〔5月14日〕青梅の最も青き時の旅 細見綾子
〔5月15日〕萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
〔5月16日〕彼のことを聞いてみたくて目を薔薇に 今井千鶴子
〔5月17日〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
〔5月18日〕夏の月あの貧乏人どうしてるかな 平田修
〔5月19日〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
〔5月20日〕汗疹とは治せる病平城京 井口可奈
〔5月21日〕帰省せりシチューで米を食ふ家に 山本たくみ
〔5月22日〕胸指して此処と言ひけり青嵐 藤井あかり
〔5月23日〕やす扇ばり/\開きあふぎけり 高濱虚子
〔5月24日〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
〔5月25日〕海豚の子上陸すな〜パンツないぞ 小林健一郎
〔5月26日〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
〔5月27日〕ソフトクリーム一緒に死んでくれますやうに 垂水文弥
〔5月28日〕蝶よ旅は車体を擦つてもつづく 大塚凱
〔5月29日〕ひるがほや死はただ真白な未来 奥坂まや
〔5月30日〕人生の今を華とし風薫る 深見けん二