【書評】吉田林檎『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


母としていまできること
吉田林檎『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


タイトルのスカラ座は、〈パンプスを鳴らしスカラ座灯涼し〉からとられていて、文脈からすると、どうやらこれはミラノではなく、日比谷のスカラ座のようだ。「赤坂」や「銀座」といった固有名詞が使われた句も見られ、都心で働いていると思しき作者の、仕事に題材をとった句も多い。

行方克巳による帯文には、〈初仕事去年の我よりメモひとつ〉が引かれているが、この句は虚子の〈去年今年貫く棒のごときもの〉を現実のレベルで描いたものと、ひとまずは言えるだろう。

「去年(こぞ)の我」という美文調は、句集全体の軽やかな言葉遣いからは少し浮いているが、パソコンの画面にブロック型の黄色の付箋を貼り付けていたことさえ忘れていて、「あっ」と思い出して「初仕事」がはじまった、という状況が思い浮かぶ。

句集には、2010年から2018年までの約9年間、つまり30代の終わりから40代後半までの333句が収められているが、句材の中心に位置づけられているのは、「仕事」ではなくむしろ「子育て」である。

ざっと数えてみると、客観的に見て「仕事俳句」と思われるものが25句程度であるのに対し、ひとり息子を詠んだ句、あるいは母としてのアイデンティティを題材とした句は、わかるだけでも50句近くある。ダブルスコアだ。

仕事は一日に8時間でよいが、子育てはそうはいかない。24時間である。仕事はルーチンになりうるが、子供は日々、変化/成長する。昨日と同じ明日が来ないというのが「子育て」である。『スカラ座』からは、小学校卒業から思春期を終えるまでの少年を育てる母親の溜息が行間から漏れ聞こえてくる。

 コスモスや泣きたくなつたので笑ふ
 時の日やこの不自由を楽しまん
 もう少し楽に生きたし吊し柿
 冬木の芽子の苛立ちの常ならず
 コート着る着ない無理やり着せにけり
 マスクとりなほ本当の顔見せず
 笑ふこと悲しき夜なり雪催
 グラスビール罪悪感も飲み干しぬ
 紅椿憎しみもまた生きる糧

感情を直接的に表現するのに、俳句という詩形は向かない――季語そのものを中心に据えるならば、それは正しいのだろう。しかしこの句集には、生きることに付随する悲しみ、怒り、不安、苦悩、憎しみ、罪悪感などが、包み隠されずに描かれている。

ここに引いた1句目から3句目は、ひょっとすると作者があとがきで「どん底の時期」と呼ぶ頃に当たるのかもしれないが、季語以外の部分はそのまま、作者が作者自身に言い聞かせている言葉になっている。〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉(加藤楸邨)に類する句だ。

ここでは「鰯雲」と同様に、「コスモス」も「吊し柿」も「時の日」も意志をもっておらず、それらは時の過ぎゆくまま、風に吹かれるままに見えるからこそ、つねに何かに立ち向かい、何かと闘っている自分自身のイメージと対置させられている。

その意味で、これらの句の中心にあるのは、作者の「生活」であり、作者のセルフ・イメージである。

ただし、その自画像は、明快で固定的なものではない。〈春の夢鏡に何も映らざる〉とあるように、根底には生きることへの不安がある。〈文字摺草まつすぐ生きてきしつもり〉のように、自分では正しい道を選んできたと思っても、悲しみは不意に襲ってくるものだ。

4句目から6句目までは、思春期の子供に手をこまねている句だ。このうち〈マスクとりなほ本当の顔見せず〉は、独立した句として読めば、必ずしも子供であると解釈する必要はないが、句集の流れのなかで読むと、これが息子であるのだとわかる。そのように「読む=解釈する」ということも、句集の楽しみでだろう。この「本当の顔」というのも、外観と本心のズレのようなものに着眼したものだ。

もっとも、彼女が闘っているのは、思春期のひとり息子だけではない。

初期の句に、〈桜餅男ばかりの待つ部屋に〉があるが、これはきっと職場の会議か何かだろう。一般的なイメージとしては、句会ではないはずだ。この句はおそらく、女性である作者が「男ばかりの待つ部屋に」「桜餅」を差し入れたのである。そうなると、ここでの季語(桜餅)は作者自身の隠喩にもなってくる。「桜餅」ののどかな、やわらかな、こういってよければ「女性」的なイメージが、少しばかり批評的に使われている。

少し際どい言い方をすれば、男たちの節くれだった指によって桜餅の葉が剥ぎとられ、あらわになった桃色の牛皮が咀嚼される――その直前の「緊張感」を描いているとも読めるこの句は、30年前ならばいざしらず、女性の地位がまったく改善されない現在の日本では(世界経済フォーラムが毎年発表している「ジェンダー・ギャップ」では、2018年のデータで日本はG7のなかで圧倒的最下位の110位だった)、ある種の社会批判を含んでいるようにも見える。

かつて、社会性俳句が一世を風靡した時代があった。1950年代のことである。社会性俳句は左派=進歩的な政治思想と連動しており、それゆえに「55年体制」の確立(社会党の退潮)とともに、やがて支持を失っていった。

通例の俳句史の理解では、そうなっている。社会性俳句のイニシアチヴをとっていたはずの「風」の沢木欣一はやがて(1956年から文部省に勤務するようになり)、子規・虚子的な「写生」の再読へと梶をきっていった。

しかし、俳句における社会性とは本来、句のメッセージ性や題材にあるのではなく、読み手との〈あいだ〉に存在するものだろう。

政治とは、外交や経済成長以上に、わたしたちの日常生活とより密接に結びついているものなのだ。したがって、上のような(ジェンダー・ギャップに関する)政治的意識が共有されていなければ、「桜餅」の句は異なる解釈が出てきてもおかしくはない。ただしそのとき、句の意義がおおいに損なわれてしまうと考える私は、それが「誤った」解釈であるとも思っている。

この〈桜餅男ばかりの待つ部屋に〉という句の他にも、句集『スカラ座』のなかには、他者としての〈男〉がたびたび登場する。これほど〈男〉が登場する句集というのも、めずらしいのではないだろうか。

 手のかかる男よバレンタインデー
 男には務まらぬこと春ショール
 身に入むや父に頭を下げられて
 乾杯をしない男の革ジャンパー
 男てふ別の生き物西鶴忌

このなかで作者の矜持をもっとも感じさせるのは、やはり二句目の〈男には務まらぬこと春ショール〉である。この句も「自画像」(セルフ・イメージ)の句だが、いずれの句にも共通しているのは、男が自分とは異なる思考をする「別の生き物」であるということである。男全般にたいして、この作者はツッコミを入れずにはいられない。オトコという生き物は、いったい何なのだ(まったく理解できないんだけど!)、と。

父親とのあいだに何があったのかは、前書がないのでわからない。ただし、実の父親が40歳くらいの娘に「頭を下げる」というのは、尋常のことではないだろう。後半に差し掛かると、〈伝へ聞く父の近況春寒し〉という句が収められており、作者はもはや実父と直接会える関係ではなくなっていることも、暗示されている。

忘れてはならないこととして、この句集には、あとふたりの重要な〈男〉が登場する。ひとりは言うまでもなく、思春期の息子である。彼が、母親である彼女にとって、最愛であると同時に異質な存在でもあることは、すでに見た通りだ。「本当の顔」を見せない厄介な男。一句目の「手のかかる男」というのも、ひょっとすると息子なのかもしれない。

もうひとりの〈男〉とは、彼女の夫である。彼は、巻頭において早くも登場するが、しかしそれは現実ではなく夢のなかにおいて、である。〈もう一度夫に恋する春の夢〉。ちなみに、同じページには〈春水や心の底に石ひとつ〉が配されていて、その憂いの正体(=「心の底の石」)が何であるのかは、読み進めていけば、それほど理解するのに時間は要らないだろう。

最後のページには、〈未婚でも既婚でもなく寒茜〉の一句が記されたところで、この句集は終わっているのだから。通読する前と後で、句の印象がだいぶ変わってくるのが、この句集の最大のポイントだ。

その点でいえば、『スカラ座』はけっして「わかりやすい」句集ではないかもしれない。一読して句意が定まらない句がけっこう含まれているからだ。

何か重大な「事件」がいくつも起こっていながら、それが何かは読者には明かされず、いつのまにか解決されてしまっているような、推理なき推理小説を読んでいるような心地になる。それはおそらく、西村和子の序文が、この作者の句の変化を「生活」の変化に寄り添いながら、丁寧に「解説」していることからもわかる。

西村の序文はやや饒舌すぎるようにも感じるが、この文章を読まずとも、この句集は読み返しているうちに、表面上の意味を超えたところにある「もうひとつの意味」が見えてくる。

たとえば、中盤に差し掛かるころに、〈銀漢や抱きしめるもの失ひて〉という句が収められている。「銀漢」とは天の川、つまり七夕の日の夜空のことである。そうであれば、この「抱きしめるもの」というのは、子供が成長したとか、ペットを失ったという意味ではない。これ以上ないほど「ストレート」な句なのである。

実際に、そのあとには〈秋風やそれでも進むほかはなし〉や〈爽やかや人の選ばぬ道選び〉という句がつづく。少しあとには〈泣くほどのことにはあらず冬灯〉〈紅引けば力授かり初鏡〉がある。「自分史」としての句である。

先ほども書いたように、〈泣き笑ひして寄席を出て春灯〉のように、この落語好きの作者は、感情をけっして包み隠さない。

しかしそれは、作者が感情的な人間であるという個人的な次元よりも、都心で働きながら(ひとりで)子育てをするという(困難がつきまとう)社会性の次元でも測られるべき問題なのだと思う。この「隠された社会性」の一点にこそ、この句集の最大の価値があるのではないだろうか。

句集全体としては、「自分史」としての人事句の多さから、自然詠においてもやや人間に引き付けて詠んだ句が目立つ。〈甘さうな雨粒のせて躑躅かな〉の「甘そうな」や、〈水鳥の水啜る音恐ろしき〉や〈ぼろ市や昔の玩具おそろしき〉の「恐ろしき」という措辞は、その例だ。

このうち「恐ろし」は、俳句ではよく用いられる言葉でもある。たとえば〈蟋蟀の正面の貌おそろしき 中田剛〉は、小さな虫にさえ観察される獰猛さを、〈端居してたゞ居る父の恐ろしき 高野素十〉は「父」の権力性を日常性のなかで描くことに成功している。〈海は恐ろし海は懐かし今朝の秋 菊田島椿〉は、震災ですべてを流されてしまった作者の句で、海に対するアンヴィヴァレントな感慨に胸を打たれる。これらと比べると、林檎句の「恐ろしき」というのは、きわめて個人的な驚きの範疇に属しているものである。

それも「自分史」のヴァリエーションなのかもしれないが、しかし自然の運行を「一物仕立て」で詠んだ句のなかには、作者の感覚が逆に読み手の想像力をやや妨げているものがあるとも言える。そこは、作者の課題だろう。

しかしその一方で、次のような句はどうだろうか。〈不意に口触れ合ふことの金魚にも〉。日常生活のなかで「不意に口が触れ合ふこと」など、そうあることではない。少女漫画や、かつてのトレンディドラマに出てきそうなイメージである。つまり即物性というよりは、大衆的な文化的レファレンスを戯画的に喚起したことで、おかしさを狙っているところがあるように見える。

その流れでいえば、〈成人の日のラジオよりさだまさし〉のような通俗性の句もある。だが、私がもっともおかしみを感じた句は、〈矛先は大統領へおでん酒〉だ。おでん酒を酌み交わしながら、大統領(ふつうに考えればアメリカの、だろう)がすべて悪いのだ、という結論に達することは、世界の片隅からもう一方の片隅へと一気に飛んでいくようで、痛快だ。やはり、「生活」は「政治」とつながっているのである。

しかし全体としてみると、このように微笑を誘うような句は少なく、こういってよければ、「まじめな」句が並んでいる。その意味では「誠実さ」が、この作者の本領なのだろう。

 雑談も全力投球新社員
 水着干し我が身見られてゐるごとし
 適当な女で通すふかし芋
 一針を刺し直しけり針供養
 母としていまできること葱刻む
 男には務まらぬこと春ショール

「誠実さ」とは、本来の意味において、俳句の「俳」という概念とは矛盾するものである。実際に、世界に対して穿った目線でツッコミを入れるという趣向は、この句集にはほとんど見られない。しかし上のような「誠実さ」(全力感と言ってもいい)は、この句集においてとても象徴的な意味をもっている。つまり、彼女にとっての俳は「自分へのツッコミ」であり、それゆえに感情が、生活が、句集の基底をなしているのである。


【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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