この出遭ひこそクリスマスプレゼント
稲畑汀子
この投稿がアップされるのは12月24日が25日に変わって1時間後、世界中で(というと時差がややこしいけど)サンタとトナカイと人間のサンタと…がばたばたしてる時刻。
地上では、運のいい人は今日が仕事納め、サンタ&トナカイ同様、ばたばたしているだろうが、ともかく、みなさん、金曜ですよ。
掲句は、わが師・稲畑汀子の人口に膾炙した句のひとつ。
けれど、そんなに好きになれた句ではなかった。
読んだのはいつだろう、多分大学生になってから句集で目にしたのだろう、実際に作られたときから少なくとも七年、もしかしたらもっと経った頃。時代は昭和から平成に移って。
好きではない理由はといえば、まず、なんとなくバブリーだし、ちょっと比喩的だし、それにあまりに屈託がなさすぎるから。
バブル崩壊後に青春を迎え、写生に目覚めたばかりで、俳句なんかに足突っ込んじゃって屈託真っ盛りの大学生が反発を覚えそうであることはご理解いただけると思う。
その初対面が尾を引いて、あんまりこれまで正面から向かったことのない句だったのだけれど、このいままでにない一年の終わりに、ふと、この句の見方が変わりつつある。これって、このことだったんじゃないか。
「バブリー」とは、物質的充足が満たす空気のことだけれど、「出逢ひ」に重きを置く姿勢は、決してバブリーではない。「出逢ひ」に空間(夜景)、時間(君の瞳に乾杯)などの物質的な付属物を思った、読者である私の全くの想像上のやっかみであったことになる。
「比喩的」とは、物質的なモノではない「出逢ひ」に、物質的な「プレゼント」を当てたことによる違和感だ。なのだけれど、そもそも「プレゼント」を物質だと考えることこそ、私のうすうすとしたバブルの記憶のなせること。プレゼントは贈り物であるけれど、本来それは物質ではなかったかもしれないのだ。
キリスト教的意味には詳しくはないけれど、プレゼントというものが他者に与えられるものである限り、それが求める形をしているかどうかはわからない。物質かもしれないし、そうではないかもしれない、思いもよらなかったけれど、これがクリスマスプレゼントであったのだと気づかされるものこそが、プレゼントなのかもしれないのだから。
「屈託のなさ」は、先立つ二つの誤解のもとに、不況の時代に面した私が作り出した見方だろう。先の見えない時代に初めて面した時には、こんな人のいい考え方を持つことはできない、そんな風に考えることは危険でさえある。しかし、何度かの乱高下を見たのちに、そんなこともあるかもしれない、そんな思いもあるかもしれないなという思いに、今、なりつつもある。
今年、「実際にものを見ること」「会って人と言葉を交わすこと」「同じ場で同じものを飲み食べること」などといったありきたりだけれど、既得の喜びとして享受してきたこと、そのために力を尽くしてきたことが、途端に取り上げられた。一方で、そんな状況にはじめてこの句の意味が身に迫り出したとも言える。
句は昭和六十三年のもちろん十二月、昭和天皇崩御の少し前の自粛期間。また、アメリカへの短期の渡航にビザが不要になったばかりであった。
句集を読むとその年が、汀子にとって、それほど順風満帆ではなかったことが、句を通して読み取れる。そんな年の終わり、離れて住む娘をアメリカに訪ねた際に詠まれたのが掲句だ。
もちろん、日々、お互いのために働いている方々の無事と安全を願うし、誰かを失いたくもないし、自分も苦しんだりしたくない。俳句のことを言えば、この一年に俳句の環境が変わってしまった方もいるだろうし、それによって句ができなくなった方もいるだろう。さまざまのひとを亡くし、また、ひとを亡くした人も見た。
それでも、そういうことを含めて「この出逢ひ」なんだろうと思う。「今」というものに出会い、この時代を生きて、この時代に誰か、あるいは何かと遭遇する。それによって引き起こされる喜びも悲しみも、例えば、この句の意味が唐突にわかるようになるようなこと、それさえ、与えられたもの=プレゼントだとすれば。
さあ、年の瀬、ばたばたしてるのはサンタも一緒、きっと思いもよらない形でプレゼントが届けられているのだろう。
みなさま、どうか、なんとか、お休み前の金曜をご安全に。
『障子明り』所収 1996年
(阪西敦子)
【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。