魚のかげ魚にそひゆく秋ざくら
山越文夫
学問の世界に身を置いていると、結論自体はさして目立たないことのほうが圧倒的に多い。
とくに哲学や文学などという分野では、急に明日から「人間性」の定義が変わるはずもなく、むしろ重要なのは議論のプロセスのほうだったりするが、こういうタイプの句を見ると、それに少し似ているな、と思う。
「魚のかげ魚にそひゆく」というのは、言ってみれば、あたりまえのこと。
「あたりまえ」のことはいちいち、日頃から意識したりはしない。しかし、改めて意識する、ということはある。
つまり、こういう句は「普段意識しないことを改めて意識したこと」に、作者の実感があるのであって、「魚のかげ」が「魚にそひゆく」のは、人類が誕生する以前から、ずっとそうだったはずだ。
では、なぜそんな「実感」がふと、沸いたのか。
ひとつの読みとしては、コスモスのゆらゆら揺れている姿を見て、ふと川の中に目を落としたというもの。この場合は、「コスモス」が原動力になるが、やや説得力を欠く。
したがって、川から顔をあげると、コスモスが揺れていたという読みのほうがいい。言葉の流れとしても、そうだろう(「コスモスや魚にそひゆく魚のかげ」ではないのだから)。
この場合は、重要なこととして、もうすでに「魚にそひゆく魚のかげ」など、作者の眼中にないということだ。
それはすでに過ぎ去り、作者は明らかにコスモスを見ている。
そのコスモスの視野の奥に、きらめく清流の涼しげな魚と影の濃淡が、幻影として二重写しになっているのだ。
そう思うと、それほど「あたりまえ」だというわけではない。
普通の人間は、コスモスを見ながら、清流の小魚たちの影などのことを、思わないからである。
実景であると同時に、幻影的な句なのだ。
「鷹」1965年12月号に収められた句だが、山地春眠子『「鷹」と名付けて 創成期クロニクル』(2019)より引いた。
(堀切克洋)