花仰ぐまた別の町別の朝 坂本宮尾【季語=初蝶(春)】

花仰ぐまた別の町別の朝

坂本宮尾
『別の朝』より


先週、超結社でのお花見吟行を主催する機会に恵まれた。

当日はぽかぽかの陽気の中で、まだしっかり咲いてくれていた桜をみんなでゆっくり眺め、人生の中でも初めてと言っていいくらいの本格的な花吹雪を浴びることもできた。

そのようなある意味非現実的で多幸感にあふれすぎた空気の中にいると、ふと自分の肉体の所在がぼやけて曖昧になる瞬間がある。

前後の時間の流れが分断され、或いは記憶が飛び飛びに接続され、様々なイメージが頭の中に巡りはじめて「今」が輪郭を失ってゆく。

こういった感覚は旅の中で、全く知らない遠い土地を一人で歩いている時にもたびたび訪れる。理由は分からない。ただ、何かが「溶け出してゆく」ような感覚だけは確かにある。

そしてこれから鑑賞してゆく句にも、この感覚が通底しているようにぼくには思えるのだ。

花仰ぐまた別の町別の朝 坂本宮尾

今回の引用元である句集『別の朝』の表題句である。

「また」「別の」という言葉に付随して、今立っている「ここ」だけではなく、作中主体が過去に訪れ、そして通り過ぎてきた場所の数々も想い起こされる句だ。絶えず旅を流れ続ける中での乾いた感慨が感じられる。

ここでは「花仰ぐ」という行為を一つのトリガーとして、自分がまた新たな町、新たな朝を迎えたのだという再認識が為されている。と同時に、瞬時に空間性や時間性を超越して「過去の町」「過去の朝」にも立ち戻ってもいる。

この句の作中主体にとって「花仰ぐ」ひとときは、過去の記憶と現在の混じり合う時間でもあるのではないだろうか。まさに先述した「溶け出してゆく」感覚に近い。

思えば桜という花は、観る者にどこか幽玄なものを感じさせて、ここではないどこかに誘うような気配を帯びている。

芭蕉の名句にも〈さまざまの事思ひ出す桜かな〉という、「桜」をきっかけとして一気に過去へ引き戻されるような句が遺されているが、年に一度、ごく短い期間だけ花をつける儚い桜だからこそ逆にくっきりと、日本人にとっての記憶の明確な境界線となり得ているのだと思う。

掲句の作中主体も、今仰いでいる桜を新たな境界線として、いつかまたそこを通り過ぎてゆく。そして次の町、次の朝へこの先も絶え間なく流れてゆくのだろう。

作者の坂本宮尾さんはまず「夏草」で山口青邨に師事。その終刊後は「天為」「藍生」に所属、それぞれ有馬朗人、黒田杏子に学ばれた。こうしてその師の名を並べてみると、旅と俳句を表裏一体のものとして捉え、作品に落とし込んでいた海外詠や旅吟の大家の系譜といった感じで興味深い。

宮尾さん自身、この句集に収められた作品を詠んだ十年の間は劇作家オーガスト・ウィルソンの研究をしており、資料集めと彼の芝居の観劇のため、何度もアメリカ各地を訪れたという。(句集『別の朝』あとがきより。)

アメリカ詠のみに留まらず、この句集には他国や日本国内に於いての旅吟も数多く収められている。どれも各地の景特有の風情を感じさせるものや、「旅」それ自体が持つ普遍性ある感慨を巧みに詠み込んだ作品ばかりだ。

一例として以下のような句があるので、いくつか引いておきたい。

春の雨亜細亜の夜の深きこと(ベトナム・ハノイ詠) 坂本宮尾

水澄むや鉄の都のいまむかし(アメリカ・ピッツバーグ詠)同

洋行のころの鞄や雁渡し 同

うららかや旅のはじめのパンケーキ(アメリカ・シアトル詠)同

噴水が虹撒く鳩に旅人に(アメリカ・ニューヨーク詠)同

草の絮飛ぶどこからも遠い町(アメリカ・ミネアポリス詠)同

旅の荷のすこしづつ減り枯木星(アメリカ・ミネアポリス詠)同

みちのくの秘仏の紅や冴返る(秋田県・横手詠)同

※括弧内地名は筆者補足註

宮尾さんは『別の朝』あとがきの中で、次のようにも書いている。

 〈どんな一日にも終わりがあり、新しい日が始まります。それはまた一期一会ということにもつながると思うのです。(中略)遠いところに行くたびに、二度とここに来ることはないだろう、と考えて淋しくなります。でも、また別の場所で新しい出会いがあり、別の新しい朝があると思い直すのです。〉

非常に共感できる一文である。どんなに楽しい旅であっても、その去り際、別れ際には必ず孤独を感じる瞬間がある。

しかし、それを正面から見つめて乗り越えるときに少しだけ何かを得て前に進むことができるのも、旅することのたいせつな効用の一つなのだ。

内野義悠


【執筆者プロフィール】
内野義悠(うちの・ぎゆう)
1988年 埼玉県生まれ。

2018年 作句開始。炎環入会。
2020年 第25回炎環新人賞。炎環同人。
2022年 第6回円錐新鋭作品賞 澤好摩奨励賞。
2023年 同人誌豆の木参加。
    第40回兜太現代俳句新人賞 佳作。
    第6回俳句四季新人奨励賞。
俳句同人リブラ参加。
2024年 第1回鱗kokera賞。
    俳句ネプリ「メグルク」創刊。

炎環同人・リブラ同人・豆の木同人。
俳句ネプリ「メグルク」メンバー。
現代俳句協会会員・俳人協会会員。
馬好き、旅好き。


【2025年4月のハイクノミカタ】
〔4月1日〕竹秋の恐竜柄のシャツの母 彌榮浩樹
〔4月2日〕知り合うて別れてゆける春の山 藤原暢子
〔4月3日〕ものの芽や年譜に死後のこと少し 津川絵理子
〔4月4日〕今日何も彼もなにもかも春らしく 稲畑汀子
〔4月5日〕風なくて散り風来れば花吹雪 柴田多鶴子
〔4月6日〕木枯らしや飯を許され沁みている 平田修
〔4月8日〕本当にこの雨の中を行かなくてはだめか パスカ
〔4月9日〕初蝶や働かぬ日と働く日々 西川火尖
〔4月10日〕ヰルスとはお前か俺か怖や春 高橋睦郎
〔4月11日〕自転車がひいてよぎりし春日影 波多野爽波
〔4月12日〕春眠の身の閂を皆外し 上野泰
〔4月15日〕歳時記は要らない目も手も無しで書け 御中虫
〔4月16日〕花仰ぐまた別の町別の朝 坂本宮尾


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



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