懐手蹼ありといつてみよ
石原吉郎
懐手は和服ならではの季語だが、独特の情緒があって私はとても好きだ。男性の和服姿を見る機会はなかなかないので、実際に懐手を見たことはないのだが。
平凡社俳句歳時記(冬・山口青邨編)の「懐手」の項には、「洋服のポケットに入れるのも季題として良いかもしれない」とあるが、この意見は少数派のようだ。私としては、現代の俳人が「懐手」を使っているのを見たら、「これはポケットのことだな」と好意的に読みたいと思う。
懐手蹼ありといつてみよ
石原吉郎は戦後を代表する詩人だが、俳句も書いていて、句集も出ている。佐々木有風主宰の「雲」という雑誌に投稿していたと年譜にあるが、現在の「雲」とは関係ないようだ。
蹼は「みずかき(水掻き)」。懐手をしている人物に出会って、水掻きを隠し持っているのではないかという幻想を抱いたのだろう。水掻きを持っているのは、河童のように異界から来た存在。そんな不穏さを相手から感じたというのだ。この感覚の裏側には、他人への不信が日常となっていた、シベリア抑留の過酷な体験があるのはおそらく間違いないだろう。
この句の直前には《懐手蹼そこにあるごとく》という句が置かれており、次のような自句自解が巻末に載せてある。
出あいがしらにぬっと立っている。しかもふところ手で。見しらぬ街の、見知らぬ男の、見しらぬふところの中だ。そこまで来れば、ふところから定石どおりの匕首など出て来る道理はない。カフカの世界はすぐ背なかあわせだ。ぬっと獺のような掌を出してくるのはもう九分どおり確実である。この句、いかにも俳句めいて助からない気がしたので、「懐手蹼ありといってみよ」と書きなおしてすこしばかり納得した。
俳句なのだから「俳句めいて」とは変な言い方だが、おそらく既成の俳句の作り方をなぞっているのではダメだというのだろう。「そこにあるごとく」という比喩を使ったのでは、水掻きの不穏さが立ち上がってこないと作者は感じたのではないか。本来なら乾いた匕首が出てくるところを、氷のようにべとついた水掻きが出てこようとしている。そんな肌感覚をともなった緊張感が、冬の空気の中に差し込んでくるのである。
「石原吉郎句集」(1974年/深夜叢書社)所収。
(鈴木牛後)
【執筆者プロフィール】
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)
1961年北海道生まれ、北海道在住。「俳句集団【itak】」幹事。「藍生」「雪華」所属。第64回角川俳句賞受賞。句集『根雪と記す』(マルコボ.コム、2012年)、『暖色』(マルコボ.コム、2014年)、『にれかめる』(角川書店、2019年)。