荒波の海を削りし捕鯨船 青園直美【季語=捕鯨船(冬)】

荒波の海を削りし捕鯨船

青園直美

この句の視線は、捕鯨船にあるようでいて、実は海の側に置かれているのかも?と感じました。

要となっているのは、「削りし捕鯨船」に用いられた、助動詞「き」の連体形「し」です。
「き」という助動詞は、身近な過去を言う場合に使われることもありますが、記憶にあること、回想されたことをあらわす場合もあります。
私は、作者自身の記憶に基づく過去として、後者で読ませていただきました。
つまり〈かつて自分が見た〉もしくは〈かつてそうであった〉という回想として、作者の内に蓄えられた〈記憶の映像〉や〈伝聞〉を、静かに呼び起こしていると感じました。

捕鯨船という言葉は、多くの背景や議論を呼び起こします。
しかしこの句では、それらは語られていません。
作者が見ているのは、行為の意味ではなく、自然の中に現れた一瞬の光景です。
船が何をしに来たのかではなく、荒波の海がどのように削られたか。その一点に、視線は留められています。

捕鯨船が通り過ぎたあと、荒波はすぐに形を変え、削られた跡も消えていったでしょう。
やがて、捕鯨船の姿も視界から失われ、荒波の海だけが残ります。
それでも、確かにそこに捕鯨船があった。
その事実だけが静かに伝わってきます。

自然の中に一瞬あらわれ、消えていった人為の存在。
その儚さと確かさを、荒波の海そのものに見ているのではないでしょうか。

菅谷糸


【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。




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