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吊皮のしづかな拳梅雨に入る 村上鞆彦【季語=梅雨に入る(夏)】


吊皮のしづかな拳梅雨に入る

村上鞆彦


新型コロナウイルス感染症拡大以前の十数年間は、毎年、5月の母の日から、筆者の母の誕生日までの2ヶ月間ほど、日本に滞在するのが倣いだった。

ここ2年間は、久しぶりに、アメリカの夏の始まりであるメモリアル・デーをはじめ、アメリカの初夏を体験できて新鮮だ。日に日に深まる緑や、ツツジ、シャクナゲ、薔薇、紫陽花。日米ともに自然の美しい季節であるが、一つだけ大きな違いがある。アメリカには〈梅雨〉が無い。

それもそのはず、〈梅雨〉は、中国の揚子江流域と日本に特有の気候現象。地域によりずれはあるが、おおむね6月10日前後から約1ヶ月間、雨の降り続く期間をいうのは皆さんご存知だろう。両国に身を置いてみると、まったくもってアメリカには〈梅雨〉がないことが肌でわかる。6月はまだ暑さも厳しくなく、と書いてはみたが、実はここ数日ちょっぴり気の早い熱波が滞在中で、雨も加わりそうな気配。とはいっても、おしなべて湿気が少なく、秋口の10月と並んで、心地よい季節なのだ。

そして日本には〈梅雨〉があるのが肌でわかる。帰郷は、まるで梅雨を体験するかのようなタイミング。じめじめして過ごし難い〈梅雨〉であるが、筆者にとってはこれも愛おしい。〈梅雨〉と呼ばれるだけあって信州の実家の周りの青々としたたわわの梅の実も、それが日に日に赤みを帯びてゆくさまも美しい。次の日本行きが、次の〈梅雨〉行きが楽しみだ。

 吊皮のしづかな拳梅雨に入る 村上 鞆彦 

〈吊皮のしづかな拳〉から、吊皮に並んでつかまる人たちが現れ、人で埋まった座席が現れ、通勤の風景だろうか、皆無口で静かな満員電車の空間が現れる。上五中七の優れた細部の描写が空間を現前させる醍醐味を、読者は体験できる。この上五中七が〈梅雨に入る〉と出会うと、満員電車に〈梅雨〉特有の湿った空気感や匂い現れ、そこに漂うかすかな心理的な翳りさえも見えるようだ。電車の動きが、〈梅雨に入る〉の季節の動きと重なり合う塩梅も魅力。気づくと、読者は自分が、この吊皮を掴む動作の(ぬし)であり、自分の掌の皮膚を通してこの吊皮を感じ、その拳自体が梅雨に入る体験する。そう、人体も梅雨になることを知るのだ。

『遅日の岸』(ふらんす堂、2015年)

月野ぽぽな


【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino


【月野ぽぽなのバックナンバー】
>>〔35〕遠くより風来て夏の海となる     飯田龍太
>>〔34〕指入れてそろりと海の霧を巻く    野崎憲子
>>〔33〕わが影を泉へおとし掬ひけり     木本隆行
>>〔32〕ゆく船に乗る金魚鉢その金魚     島田牙城
>>〔31〕武具飾る海をへだてて離れ住み    加藤耕子
>>〔30〕追ふ蝶と追はれる蝶と入れ替はる   岡田由季
>>〔29〕水の地球すこしはなれて春の月   正木ゆう子
>>〔28〕さまざまの事おもひ出す桜かな    松尾芭蕉
>>〔27〕春泥を帰りて猫の深眠り        藤嶋務
>>〔26〕にはとりのかたちに春の日のひかり  西原天気
>>〔25〕卒業の歌コピー機を掠めたる    宮本佳世乃
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>>〔22〕雛飾りつゝふと命惜しきかな     星野立子
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>>〔19〕人垣に春節の龍起ち上がる      小路紫峡 
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>>〔8〕火種棒まつ赤に焼けて感謝祭     陽美保子
>>〔7〕鴨翔つてみづの輪ふたつ交はりぬ  三島ゆかり
>>〔6〕とび・からす息合わせ鳴く小六月   城取信平
>>〔5〕木の中に入れば木の陰秋惜しむ     大西朋
>>〔4〕真っ白な番つがいの蝶よ秋草に    木村丹乙
>>〔3〕おなじ長さの過去と未来よ星月夜  中村加津彦
>>〔2〕一番に押す停車釦天の川     こしのゆみこ
>>〔1〕つゆくさをちりばめここにねむりなさい 冬野虹



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