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さまざまの事おもひ出す桜かな 松尾芭蕉【季語=桜(春)】


さまざまの事おもひ出す桜かな

松尾芭蕉


待ちに待った〈桜〉の季節がやってきた。日本から遠く離れたニューヨークに暮らしていても〈桜〉を楽しむことができることをとても幸せに思う。

〈桜〉はいつアメリカに渡ったのだろう。

19世紀の終わりにアメリカの地理学者が、日本旅行で見た〈桜〉の花の美しさに魅せられ、首都ワシントンDCのポトマック川の岸辺をこの美しい花で満たしたいという彼女の願いが米国と日本国を動かしたという。

1910年には東京市(当時)からワシントンDCに贈られた2000本の〈桜〉が輸送中に全て害虫に侵されたため焼却となる事態もあったが、その後、無事3020本の〈桜〉が寄贈され1912年に記念式典が行われたのだそうだ。

淡いピンクの花を渾身で枝の隅々まで咲かせる〈桜〉の夢のような美しさ、短い盛りを咲き切り散りゆく美しさ。古くから日本人に深く愛されてきたこの花は、日本人に限らず、見る人を強く魅了し動かしてきたのだ。アメリカに〈桜〉をもたらしてくれた人たちの営みに感謝してやまない。

本格的な春の到来を告げる、美しい〈桜〉の人気は、渡米後またたく間に全米に広がり、今では、各地に〈桜〉の名所はあるようだが、その中でも最も規模が大きいものは、先に紹介したワシントンDCの〈桜〉で、毎年、〈桜〉の盛りに合わせて3月の終わりから4月中旬にかけて開催される全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)は最も有名。いつか必ず訪れてみたい〈桜〉だ。

更に、「世界の桜」(Cherry Blossoms Around the World)など海外の〈桜〉のウェイブサイトを見るにつけ、日本を魅力発信地とする〈桜〉がアメリカのみならず世界中の人々をこれからも魅了し続けてゆくことを予感する。

さて、筆者が毎年楽しみしているのは、セントラルパークの〈桜〉。今年もありがとう。

(マンハッタンのピルグリム・ヒルにて2021年4月8日に撮影)

さまざまの事おもひ出す桜かな

高名な作者による高名な句で、句の詠まれた背景やその逸話などは、ネット検索で『芭蕉と伊賀』『俳句の里・松山』など、多数みつかるのでそちらをご覧いただきたい。

掲句の眼目である上五中七〈さまざまの事おもひ出す〉を見てみよう。〈桜〉を見て作者が思い出した個人的なことがらではなく〈さまざまの事〉としたことが、作者に限らず掲句の読者全てが、〈桜〉を見て〈おもひ出〉している、句中の動作の(ぬし)になることを可能にしている。それぞれの読者が読者にとっての〈桜〉を見て、自分の人生に思いを馳せることができるのだ。その先には、作者の見た〈桜〉や、読者それぞれの見る〈桜〉を全て含み且つそれらを超えた普遍の〈桜〉が現れる。

ここで、視点を変えてみよう。〈さまざまの事おもひ出す〉は、実は、当たり前すぎて疑いもしない、人間という生き物の本性の一つを言い得ている。人間は生きている限りおのずと記憶をしてしまう。表層意識では忘れるという経験をしていても深層意識では全ては記憶されているという。だから人間は何かを見る(体験する)と、忘れていた何かを思い出すともいえる。

そうだとして、そして仮に自分が作者として、人の(さが)としての〈さまざまの事おもひ出す〉の上五中七を得て、一句を成すために下五に何を置くか、という段になったとしてみよう。人は何を見ても思い出すものなのだから何を置いてもよいかもしれないのだが、日本で生まれ育った人(以下、日本人)にとって〈さまざまの事おもひ出す〉という人の(さが)をいうのに筆者は〈桜〉が最適で動かないと思った。

もし、生まれ育った国が日本でなかったとしたら、人の(さが)としての〈さまざまの事おもひ出す〉は同じだとしても、その国や文化に最適な他の下五があるのかもしれないと。掲句は日本人の普遍の心の姿の一つである、と。

  さまざまの事おもひ出す桜かな

日本人の心に深く根ざしている普遍の〈桜〉。〈桜〉を見るたびに思い出される〈さまざまの事〉。

今年の〈桜〉を見て、セクポリ読者の皆さんはどんなことを思い出しただろうか。

新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大を受け、ニューヨークに発令された非常事態宣言により、外出が制限されて間もなく迎えた去年の開花時とは違い、今年、公園には穏やかに〈桜〉を愛でる多くの人々の姿があった。

万朶の〈桜〉のもと、筆者は命あってまた〈桜〉を見ることができたことに感謝しつつ、この一年を思った。

今から333年前に詠まれた掲句は、これからも、〈桜〉の季節のたびにその時を生きる読者の体験として更新され、生き続けるだろう。

「笈の小文」

月野ぽぽな


【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino


【月野ぽぽなのバックナンバー】
>>〔27〕春泥を帰りて猫の深眠り        藤嶋務
>>〔26〕にはとりのかたちに春の日のひかり  西原天気
>>〔25〕卒業の歌コピー機を掠めたる    宮本佳世乃
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