
【第16回】
三代目中村仲蔵=十四代目勘三郎の俳句

来月2月の歌舞伎座は「猿若祭」。初代猿若勘三郎(のちの初代中村勘三郎)が寛永元年(1624年)に芝居小屋「猿若座」の櫓を上げたことが江戸歌舞伎の始まりとされており、その江戸歌舞伎の歴史を振り返り、さらなる発展を願って行われる公演である。十七代目中村勘三郎が昭和51年(1976年)に始めたもので、今年はちょうど50年目、歌舞伎座で7度目の開催である。
この連載の第6回では、昨年の猿若祭にちなんで十七代目勘三郎の俳句を紹介したが、今回は“十四代目”勘三郎の俳句を紹介したい。
→【第6回】江戸歌舞伎の始祖の名を再興した十七世中村勘三郎の俳句
“十四代目”中村勘三郎=三代目中村仲蔵
第6回の連載で書かせていただいた通り、中村勘三郎の名跡は、十三代目で一旦途絶え、十七代目が再興したので、十四代目から十六代目は“預かり名跡”として実際には襲名されたことはなく、のちに充てられたものである。
その“十四代目”中村勘三郎を充てられたのが、三代目中村仲蔵(1809〜1886)である。
三代目中村仲蔵は、幕末から明治にかけて活躍した役者で、屋号は「成雀屋」のち「舞鶴屋」。歌舞伎振付師の日本舞踊志賀山流の十一代家元である三代目志賀山勢以を母として誕生し、8歳の時に十二代目勘三郎(五代目中村傳九郎)の門弟となり、のち十二代目勘三郎の妹婿に。1875年(明治8年)に十三代目勘三郎が中村座座元としての負債を理由に引退した際、三代目仲蔵が櫓を預かり、中村座の座主となった。
三代目中村仲蔵の俳句
三代目中村仲蔵は、俳名を雀枝・秀雀・舞鶴・秀鶴とし、俳諧をよくした。仲蔵の自伝『手前味噌』には、仲蔵の俳句が数多く掲載されている。669ページにも及ぶ貴重な記録の文章中に、流れるように句がたくさん織り込まれている中から、数句を挙げる。
鶴の羽に舞ひ廣げたる霞かな
積るのも消えるも早し春の雪
落書の墨の香のこる櫻かな
散り際も清き椿や屋敷跡
人形に春風艶を浮せけり
如月の光餘波や稲荷まへ
麗かや足元に浮く竹生島
春の鷹百萬石を一ト眼かな
松陰に田螺の匂ふ團扇哉
若草や一群揃ふ印し笠
狗背もこわき舎りや壁の破れ
青空に濡色を持つ辛夷かな
踏出しの草鞋重たし春の雨
定宿にはじめて水のぬるみかな
父母に逢ふ心地なり春の不二
捨かねた世や嫁菜摘む尼二人
間違へた道は徳なり春の鳥
四ツざしの團子尊とき櫻かな
山路来た眼にはなはだし鯛鮃
中村屋と「舞鶴」
三代目中村仲蔵の俳名であり屋号でもある「舞鶴」は、初世の猿若勘三郎から由緒のある、中村屋の歴史とともにある名前である。
舞鶴は、初世〜四世までの中村座の座紋「丸に舞鶴」、預十四〜十六代までの屋号は預十四代の三代目中村仲蔵の屋号をとった「舞鶴屋」、そして勘三郎の名跡を再興し猿若祭を始めた十七世勘三郎の俳名でもある。
その「舞鶴」を、今年二月の猿若祭において、二代目中村鶴松が初代中村舞鶴(まいづる)として襲名し、幹部昇進することが昨年十二月に発表されていた。
一般家庭に生まれ児童劇団からオーディションに合格して5歳で歌舞伎出演し、10歳で十八世勘三郎の部屋子になった二代目鶴松が襲名し幹部になるというのは、中村屋贔屓に限らず、歌舞伎好きの中でも本当に嬉しく感慨深い発表であった。
しかし直前の残念なプライベートの失敗により、襲名は見送りになってしまった。
鶴松の舞台を観たことがある人なら、その素晴らしさを知っているだけに、本当に本当に勿体無い。一観客の私も身を捩るような思いを感じている。
鶴松は1月、新春浅草歌舞伎の選抜6人のメンバーとして出演していたが、くだんの件で休演となってしまった。

その後も、浅草公会堂前には、まだ鶴松の名を染め上げた幟が下げられずに立ててあった。
浅草じゅうのお店には、6人のポスターが貼られていた。
浅草のメンバー、そして2月は中村屋兄弟も、急遽鶴松の代役も兼ねながら奮闘する。
浅草の街やメンバーや中村屋の面々、支えてくださるスタッフ、観客…たくさんの気持ちを受け止めて今は謹慎し、復帰に向けて精進してほしい。待っている人がたくさんいる。
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