職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将【季語=九月(秋)】

職捨つる九月の海が股の下

黒岩徳将

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 目標喪失の時代である。パンデミック、天災、戦争、政治、イノベーション、あらゆる要素が絡み合いながらこうも唐突に、迅速に、ある意味で無根拠に、社会や産業の構造を変えていく時代だ。流行の分野が次々入れ替わり、日々進化するテクノロジーに追いつくこともままならないままどの企業も舵取りの困難さに直面している。これが個人レベルになると、将来のありたい姿を夢想し、長期的な目標を立て、そこから逆算した日々の小さな目標を達成していく間に、次々とスクラップ&ビルドが起こり、産業の寿命が尽きてしまう。個人の社会人人生の時間感覚と、社会変化のスピードが全く合わなくなってしまった時代なのだ。だからこそ、キャリアは目標より目的だ。どういうアウトプットで生計を立てていきたいか、社会に貢献あるいはインパクトを残していきたいか。内省を繰り返し、行動し続けることは大変だが、どう生きていくかを問い続けるのが人生だ。

 ……というようなことを会社の研修などで聞いたことのある人も多いだろう。こうした時代の分析は正しく啓蒙的だが、じゃあどうすりゃええねんと辟易させられもする。私自身も昨年の転職活動で自身のキャリアの振り返りや今後の進路などさんざん悩んだが、結局は手を差し伸べてくれたところに落ち着いた。賢い人、要領の良い人ほど自身のキャリアのために戦略的に仕事を選び、スキルと実績を身につけ転職市場をゆうゆうと泳いでいく。そして皆が、泳いでいかねばと急き立てられる。個人と仕事、仕事と社会の関係が、すっかり奇妙にねじれてしまっている。皆がその知性や能力を、よりよい「未来」のための社会づくりに使うのではなく、「今」の社会の荒波をなんとかサバイブするために使わざるを得ない、能力搾取ともいうべき社会構造のねじれ。そして情報技術革新や効率化は労働密度を際限なく高めていき、利便性を享受する代わりにみな疲弊する。イノベーションによって世の中が便利になることと、人々の真の豊かさや幸福は全く別の次元の話なのだ。

 掲句は第一句集『渦』より。股の下に見えるのは夏が過ぎ去って穏やかな、けれど静かに波は高く、時化の予感を漂わせる九月の海。「職捨つる」身の心象風景そのものと言っていいほどに、予感を孕んだ九月の海はただただ青く視界に余る。「捨つる」と言うほどに大きな決断であった退職は、キャリアアップか逃避かいまだに心の整理ができずにいる。白紙の未来は可能性かホワイトアウトか、そのときそのときの選択が正しいと信じて進むしかない。いや違う、正しい選択などはじめから存在しない。選んだ方を正解にするために、いまを全力で生きるのだ。

(古田秀)


【執筆者プロフィール】
古田秀(ふるた・しゅう)
1990年北海道札幌市生まれ
2020年「樸」入会、以降恩田侑布子に師事
2022年全国俳誌協会第4回新人賞受賞
2024年第3回鈴木六林男賞、北斗賞受賞
2025年第2回鱗-kokera-賞受賞



【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉

【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)

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